第129章 判断の座標軸
観測データが流れ込み続けていた。
赤い警告が点滅し、波形は揺れを増していく。
——相模トラフ。日本南岸のプレート境界。
「位相差、さらに拡大。平均三・八センチ……」
マエルが報告すると、船内に緊張が走った。
わずか数センチ——だが、それは数百キロに及ぶ断層全体が同時に撓んだことを意味する。
『ISS、こちら筑波。データ確認した。国内の地震計ネットワークも同調を示している。……このままではM8クラスの発生可能性を否定できない』
回線の向こうで声が震えていた。だが、すぐに別の通信が割り込む。
『こちらモスクワ。ISSは観測に徹しろ。我々が地上対応を決める。政治的混乱を煽るな』
ヒューストンが間髪入れず返す。
『地上はすでに混乱中だ。日本は核攻撃で通信網が破壊されている。ISSのデータが唯一の判断材料だ』
矛盾する命令が、またも同じステーションに突き刺さった。
「私たちが黙れば、地上は盲目になる」
斎藤ははっきり言った。
「だが勝手に公表すれば、国家機密違反になる」モラレスが返す。
「どっちを取る?」
言葉が鋭く交錯する。
科学と政治、使命と責任。
セルゲイの低い声がZvezdaから響いた。
『データは全人類にとって重要だ。だが公開すれば、軍事利用の口実にもなる。——もし“地殻異常”を理由に軍が動けば、どうする?』
「そんな理屈で隠したら、救える命も救えない」マエルが怒鳴った。
「首都圏直下型が現実になれば、数千万が危険に晒される」
船内に一瞬、沈黙が落ちる。
誰もが、自分の言葉が次の数千万の生死に繋がるかもしれないと感じていた。
その時、再び波形が跳ねた。
「相模トラフの歪み、急速に減衰。……スロースリップ?」
斎藤が声を上げる。
「いや、通常のスリップより速い。まるで“力を逃がす”ような挙動だ」
筑波の解析官が慌ただしく答えた。
『観測網も同じ。短時間でのエネルギー解放が起きている。だが完全に解消したわけではない。むしろ一部に強い集中が残っている可能性がある』
つまり——大地震は「回避されたかもしれない」し、「これから起きるかもしれない」。
どちらとも言えない。
「判断不能……」モラレスが呟いた。
「それでも警告は出すべきだ」マエルが迫る。
「いや、確証がないのに出せば、避難と混乱でさらに被害が出る」セルゲイが反論する。
三者三様の意見がぶつかる。
斎藤は手の中のデータを見つめた。
数値は正直だ。だが数値が指し示す未来は一つではない。
『ISS、こちらヒューストン。君たちに決定権はない。我々がデータを処理し、必要なら公開する』
『否定する。データは国際協定で共有されるべきだ。モスクワが主導する』
二つの声が、同じ回線でぶつかり合った。
クルーたちは無力感に包まれる。自分たちは地球の上を飛ぶ観測者でありながら、決断の外に置かれている。
「……なら、せめて私たちの間では決めよう」
斎藤が口を開いた。
「公表するか否かは地上に委ねる。だがここでは“科学者”として真実を追い続ける。それだけは一致できるはずだ」
セルゲイはしばらく黙り、やがて頷いた。
『観測は続ける。それでいい』
マエルも深く息を吐き、端末に目を戻した。
「データは私たちの言葉だ。どこかで誰かが必ず必要とする」
ISSの窓に、関東平野が流れていく。
その大地はまだ静かに眠っている。
だがプレートの下では、確実に何かが蠢いていた。
地球の未来を決めるのは、数字か、政治か、それとも自然そのものか。
答えはまだ出ていない。
だがISSのクルーたちは、一瞬だけ国境を忘れ、同じ波形に目を注いでいた。




