第117章 封印と調査
2027年11月15日、午前3時。
京都・東山の麓にある国立歴史文化総合博物館の地下収蔵庫前に、黒塗りのトラックが無灯火で滑り込んだ。
周囲の街路は一時的に封鎖され、警察官の制服も見えない。かわりに、防衛省の警備員と博物館特別警護班が、無線で低い声を交わしていた。
荷台には、厚さ10センチの鋼鉄製クレート。その内部に、防水・防塩処理された「菊の御紋」が収められている。
重量はおよそ300キロ。クレーンが静かに吊り上げ、地下収蔵庫のエアロックを抜けた。
「——確認。X-7区画、収蔵完了」
防衛省の担当官が冷たく告げる。
博物館の館長は額に汗を浮かべて、静かに頷いた。
「これより、この御紋は“国宝級資料”として、特別扱いにて管理いたします」
収蔵庫の内部は、温湿度が一定に保たれた白い空間だった。
照明が点ると、クレートの蓋が慎重に外される。
そこに現れたのは、直径一メートル、十六弁八重表菊。海底から引き上げられたばかりにも関わらず、腐食の痕跡はほとんどなく、むしろ磨かれた鏡のように輝いていた。
研究主任の白石教授が、眼鏡の奥で目を細めた。
「……これは、想像を超えている。通常の真鍮合金なら、この環境で七十年以上海水に浸かれば黒緑色に変色するはずだ。
だが見ろ、輝きはほとんど損なわれていない」
若手研究員が恐る恐る表面に近接光を当てる。
「反射率が異常に高い。まるで金箔を張り替えたみたいです」
「金属学的には説明がつかん。だが歴史学的には……」
白石教授は息を整え、周囲を見渡した。
「この御紋は、単なる装飾ではない。天皇と国家を結ぶ“象徴”そのものだった。戦艦大和の艦首に掲げられ、海に沈んでから今日まで、日本人の潜在意識に刻まれていた。
その御紋が、今こうして輝きを放っている——。これは偶然ではなく、時代が呼び戻したのだ」
調査は徹底して行われた。
レーザーによる表面スキャン、合金成分のX線解析、微細な腐食痕の顕微鏡観察。
だが、いずれのデータも「通常の真鍮合金」との大差を示さなかった。
「……科学的には説明できない。ただの合金。しかし現実には、この輝きがある」
若い研究員は首を傾げた。
白石教授は笑みを浮かべ、古文書を広げる。
「平安時代から、菊花は“不老長寿”を意味する文様として重んじられてきた。
後鳥羽上皇が紋章として菊花を選んで以来、これは“永遠”の象徴となった。
戦前の軍艦の艦首に掲げられたのも、単に皇室のしるしというだけでなく、不滅の国家を体現するシンボルだったのだ」
研究室の空気が、歴史の重みに圧し潰されるように沈黙する。
やがて博物館館長が口を開いた。
「この御紋を、公表すべきでしょうか?」
防衛省担当官は即座に首を横に振った。
「否。いま東京は焼け野原、政府機能も臨時。公表すれば、国民は“復古主義”と“新しい権威”の間で分裂する。
この御紋は、今はまだ封印するしかない」
白石教授は御紋を見つめ、深い溜息をついた。
「だが、歴史は封印に耐えない。必ず、この花が再び掲げられる日が来る。
その時、国民は問われるだろう——何を“象徴”とするのかを」
御紋は特製の防弾ガラスケースに収められた。
ケース内部は窒素で満たされ、監視カメラと生体認証ロックが二重に施される。
収蔵庫の入口には自衛隊警備班が常駐し、出入りは全て暗号コードで管理されることとなった。
作業員が最後の施錠を確認したとき、ガラス越しに光が揺らめいた。
金色の花弁が、ほんの一瞬、人間の眼をまっすぐに射抜くように輝いたのだ。
「——まるで、見られているようだ」
研究員が呟いた。
誰も返事をしなかった。
ただ、白石教授が深く頷き、静かに言葉を残した。
「国宝というより、これは“国の魂”だ」




