第115章 夜 ― 再生の兆し
午後7時。
体育館の高窓は、早い冬の闇に沈んだ。非常用の白いLEDが数本だけ灯り、床の養生マットに島のような明暗のむらを作る。ディーゼル発電機は燃料節約のため1時間点灯・2時間消灯の輪番運転に切り替え。田村は掲示板に新しい紙を貼った。
19:00–20:00 点灯/20:00–22:00 消灯/22:00–23:00 点灯/
21:00以降は入口1カ所、
自衛隊の小隊長は体育館の平面図を広げ、防犯・衛生・配給・情報・通訳の五つの机に札を立てる。
「各机で“当番”を募る。二時間交代。腕章は色分け、赤が防犯、緑が衛生……」
きびきびとした説明に、人波が慎重に、しかし確かに動き出した。
最初に手を挙げたのは、昼に声を荒らげた中年男だった。
「悪かった。さっきは取り乱した。……防犯、やる」
腕章を受け取る手は震えていたが、握りは固い。小隊長は短くうなずき、夜間見回り表に名前を記す。
佐伯は配給机に腰を下ろし、家族単位・個人単位・脆弱者枠の三列に分け、翌朝の必要数を見積もる。
「カレー62、乾パン91、水500mlが……」
衛生机では、美咲が仮設トイレの清掃ローテーションを作っていた。バケツと希釈した次亜塩素酸、ゴム手袋。
「小さい子のいる家は外します。高齢者は見回りと交互に。——ありがとう」
韓国から来た若い母親が、片言で言う。
「台所、手伝えます。海苔巻き、作れる」
「じゃあ“炊き出し班”に。火気は屋外。ガス缶は一本一日まで」
言葉は拙くても、手順は通じる。美咲は母親にオレンジ色の腕章を巻いた。
情報机の前には、段ボールで拵えた三分割の掲示板が立つ。
《事実》《未確認》《噂》——元記者の吉岡が区分を作った。
「“台湾東部の橋が落ちた”は未確認。“今夜、ここが襲われる”は噂。ソースを書け。書けないものは“噂”に貼る」
「なんでそんな面倒を」
「面倒をやめた時、嘘が勝つ」
吉岡は淡々と答え、更新時刻を書き込む。掲示板の前で、数人がスマホとメモを手に静かに議論を始めた。声は低く、短い。怒号が消え、手続きが残る。
消灯の合図。体育館がすっと暗くなる。防犯班が赤いペンライトを胸にぶら下げ、入口の一カ所に立つ。
奥の島では、子どもたちが集まっている。美咲が紙芝居を読み、韓国の母親がやさしい節回しで童謡を重ねる。言葉は違っても、拍子が合う瞬間が来る。眠りのリズムが島から島へ伝わり、泣き声が減っていく。
その外周、地元の老人が膝掛けを肩にかけ、防犯班と歩幅を合わせて歩く。
「昔の疎開も、最初は気まずかった。だが、役割を決めると、皆、ちゃんとやった」
田村は体育館の中央に立ち、“避難所運営委員会”の設置を宣言する。
「委員長は持ち回り。今夜は私がやる。明日朝は——」
彼は言いかけて口を閉じ、紙を掲げた。
「くじで決める。行政も避難者も、同じ列に並ぶ」
ざわめきが起き、すぐに静まる。公平は、時に野暮で、だが最も強い。
消灯。
闇の中、一枚の紙が手から手へ渡る。韓国の母親が書いた、台所のレシピ。米が少ない夜に湯と塩で増やす術、子どもが食べやすい柔らかさ、冷えても匂いが立たない工夫。紙は佐伯の配給机に届き、数字の横に小さなメモが増える。
—「明日、海苔巻き風おじや。鍋は屋外。配膳は班別。」
遠く、山影の向こうで一度だけ低い雷のような音がした。誰も口には出さないが、皆がそれが戦の音だと知っている。
それでも、体育館の空気は少しだけ落ち着いていた。役割と手順と線引きが、ここに小さな国を形づくり始めている。
 




