第113章 朝 ― 混乱と統制
2027年11月17日午前6時。
愛媛県松山市郊外、市立体育館。
夜を越えた避難所は、まだ夜明けの寒気を溜め込んでいた。薄い毛布の下で、数百人の避難民が身を寄せ合っている。体育館の床には青い養生マットが敷かれ、その上に無数の靴と荷物が散らばっていた。
マイクのハウリング音が響く。
「ただいまから食料配布を開始します!」
声の主は市役所危機管理課の田村主査だった。白い防災ベストの下に、夜通し働いた疲れがにじんでいる。体育館の中央に折りたたみ机を三つ並べ、自治体職員とボランティアが配給の準備を整えていた。机の上には段ボール箱が積まれ、レトルトカレー、乾パン、500mlペットボトルが整然と置かれている。
「一家につき、レトルト二袋と水1リットルです! 列を乱さず、順番に!」
田村は強く言い聞かせるように声を張った。
列の先頭に並んだのは東京から逃げてきた会社員、佐伯健一だった。スーツは皺だらけ、革靴の先は擦り切れている。
「……一リットル? 家族三人で?」
苛立ちを押し殺した声が漏れた。
後ろにいた地元の老人が眉を吊り上げる。
「贅沢言うな。都会のもんは、まだ飯を買えると思ってるのか?」
「いや、そういう意味じゃ……」佐伯が言い返しかけた瞬間、列の空気がぴりついた。
しかし誰も列を崩さない。人々は互いに睨み合いながらも、黙って前へ進んだ。震災でも戦災でも繰り返されてきた「列を守る」という日本的秩序が、かろうじて暴発を防いでいた。
——だが、その均衡はいつまで保てるのか。
体育館の隅では、学生ボランティアの美咲が段ボールを抱えて走っていた。彼女は愛媛大学教育学部の三年生で、この三日間、夜も寝ずに配給作業を手伝っている。
「すみません、子供がいる世帯は優先的に列の左側にお願いします!」
美咲の声に、若い母親たちが乳児を抱えて進み出る。
しかしすぐに怒声が飛んだ。
「なんで子供ばっかり優遇するんだ! こっちだって老人抱えてんだぞ!」
声の主は40代の男性、土木作業員風だ。顔は赤く、疲労と不満で膨れ上がっていた。
田村が慌てて間に入る。
「順番に回ります! 必ず全員に行き渡ります!」
だが、言葉の裏で田村自身も配給量の不足を悟っていた。本部から届いた物資は人口の半分しか賄えない。自衛隊に追加を要請しているが、輸送優先は関東の被災地に取られている。
「……これが続けば暴動になるかもしれない」
田村は心の中で呟いた。
その時、体育館の扉が開き、迷彩服の自衛隊員が入ってきた。四国補給基地から派遣された小隊長だった。
「配給は我々が監視します。混乱を防ぐため、列は三列に分けてください!」
厳しい声に、人々は一斉に黙った。制服の存在がもたらす威圧と安心。人々の視線が自衛隊員に吸い寄せられ、田村は安堵の息を吐いた。
体育館の窓から、かすかに朝の光が差し込む。
だが、その光は決して平和の兆しではなかった。東京は核で焼かれ、台湾では中国軍が上陸を開始、韓国では北の軍隊が国境を越えたという報が流れている。
ここに集まった人々は、まだ「日本という国」が明日も存続するのかを知らない。
毛布の中で震える子供が、不意に泣き声を上げた。
列の中にいた佐伯は、その声に一瞬、我に返った。
「……そうだな。生き延びることが先だ」
彼は静かに列を進め、配られた小さな水のペットボトルを両手で受け取った。
続きを「第2章 昼 ― 摩擦と警戒」から執筆しましょうか?




