第96章 道東の静かな前夜
——2027年11月13日、午前5時。北海道・根室半島。
曇天の下、港町は妙な静けさに包まれていた。
前夜から響いていた低い唸り音は止まず、沖合に浮かぶ黒い影が朝日を受けて輪郭をはっきりと示していた。
漁師の老人は双眼鏡を下ろし、顔を歪めた。
「……国後の港に、戦車運んでやがる。」
隣で立つ青年は青ざめ、声を失った。
その視線の先、わずか20キロ先の国後島。
そこにはロシア製揚陸艦から次々と下ろされる装甲車、野営用のコンテナ、ミサイルランチャー。
白い息を吐きながら作業する兵士の姿まで見えた。
「まだ日本の土地じゃねえ……けど、あそこから撃たれりゃ一発だ。」
老人の言葉は、寒風よりも重く響いた。
同刻、陸自・別海駐屯地。
第5旅団の小隊長・高瀬一尉は、管制室で双眼鏡と地図を往復させていた。
スクリーンには衛星画像が投影され、択捉・国後の港には赤いマーカーが点滅していた。
「部隊展開は続行中。T-80戦車、BMP-3、さらにS-400地対空システムまで確認。……もう“演習”じゃない。」
報告を聞いた高瀬は唇を噛んだ。
「正面から撃ってきたわけじゃない。だが、戦力は明らかに対日配置だ。これじゃ、根室半島丸ごと人質だぞ。」
背後で若い隊員が呟いた。
「俺たち、明日には戦うんですか……?」
誰も答えられなかった。
ワシントンD.C. シチュエーションルーム。
「ロシアは千島列島全域に戦力を強化。特に択捉島に第18機械化旅団を再配備。核弾頭搭載可能な短距離ミサイルも搬入の兆候があります。」
報告に、会議室は沈黙に包まれた。
欧州代表は腕を組んだまま言った。
「休戦に安堵するヨーロッパと違い、極東は新たな戦場になりつつある。」
日本代表・榊原はスクリーンを指さした。
「彼らは撃っていません。まだ一発も。しかし“撃てる”態勢を完成させている。これが何よりの脅迫です。」
午後、根室市役所。
庁舎の屋上からは、国後の港に並ぶミサイル車両が肉眼で見えた。
市長は防災課の職員に問うた。
「避難計画は?」
「人口2万6千。港湾施設からの退避バスは手配済みですが、収容先は釧路までで限界です。」
市長は眉をひそめ、机に手を置いた。
「——つまり、ロシアが撃つ気になった瞬間、この街は地図から消える、か。」




