第86章 人を動かす日
T+25h/防災庁地下 第3会議室
「……で、満杯だ」
避難所から戻った区の連絡官が、煤けたマスクを外して呟いた。
「体育館一つに二千人。空気が濁ってる。発熱者も増えてる。移さなきゃ——」
沢渡結衣はメモを取る手を止めた。
「移す先は?」
「都内じゃ無理だ」別の職員が口を挟む。
「外縁部へ。多摩、あるいは海上搬送。人を抜かなきゃ、逆に死ぬ」
沢渡は一瞬、黙り込む。彼女の耳には、薄い衛星回線越しに榊原総理の声が届いていた。
『同感だ。二日目は人を動かす。結衣、回線を開いてくれ。〈大和〉をつなぐ』
T+27h/東京湾外縁〈大和〉CIC
「CIC、オープン回線入ります」
通信士が声を上げた。スクリーンには防災庁地下の会議室映像。ノイズ混じりだが、人の顔は判別できる。
榊原総理が短く言った。
「優先は三群。乳幼児、透析患者、重症者。これを抜きにかかる。〈大和〉は艀と艦載艇を動かせ」
「了解」CICのオペレーターが端末を叩いた。
「湾内でタグと水上バスを拾います。横須賀・木更津に吸収ルートを構築します」
沢渡が言葉を挟む。
「陸上は河川敷のLZに。多摩川、荒川、それと江戸川。ヘリを入れて、赤札を回収しましょう」
画面の向こう、現場の消防庁連絡官が歯を食いしばる。
「……選べって言うんですね、赤札だけ」
沈黙。だが榊原は声を低く落とした。
「迷うな。全員を抱えれば、全員が死ぬ。動ける者は次に回す。赤だけを、今すぐ抜け」
T+30h/多摩川河川敷 臨時LZ
ジェネレーターの唸りと、ローター音が混じる。
陸自隊員が石灰でマークした「H」の周囲に、担架が並べられていた。
「赤札十五! 搬送優先だ!」
米軍MV-22がゆっくりと降下してくる。
熱風に砂塵が舞い上がり、避難者たちが顔を覆う。
担架を運ぶ消防隊員が怒鳴った。
「母子を先に! 酸素ボンベ付き、残圧少ない!」
陸自曹長が手を振る。
「赤札の番号順だ! 母子は三番! 急げ!」
ローター音にかき消されながら、担架が次々と機内へ消えていく。
残された黄色札の人々が、不安げに列を見つめていた。
T+33h/東京湾臨時桟橋
「乗ってください、押さないで!」
海保の救難員が声を張り上げる。
桟橋にはタグボートと漁船が横付けされ、艀に人を載せていた。
〈大和〉からの命令は明快だ——「赤札搬送後、次は乳幼児と高齢者」。
老婦人を背負った若い自衛官が、甲板に降り立つ。
「一人追加! 心疾患!」
医官が頷き、脈を測りながら記録に赤線を引いた。
桟橋脇では、若い海保士官が無線を握りしめていた。
「こちら桟橋A。積載二十完了。木更津へ回航開始」
〈大和〉CICが返す。
「了解。二時間後に次便投入。艀は交互に回せ。混乱を作るな」
T+36h/防災庁地下
沢渡は額を押さえながら報告を聞いていた。
「水は二重化できました。横浜沖〈いずも〉と湾内〈大和〉の二系統で。造水量は一日三万人分」
「補給線は?」
「環八から中央道ルートを確保、米軍工兵が押し広げてます。走れる線が二本に」
榊原の声が重く返る。
「よし。だが忘れるな。見せなきゃならん。二日目の最後に“秩序”を可視化する」
T+42h/板橋区臨時避難所
拡声器から、低い声が流れていた。
「……配給は班長へ。黄色タブを持つ者が受け取り、内部で分配。並ばない。取り合わない」
沢渡が設計した「自警三原則」が貼り出されている。
•武装の禁止
•逐次報告
•拘束は最短・最小
数分後、給水所の列がすっと途切れた。代わりにタブを持った班長たちが順に前に出て、容器を受け取っていく。
子供が紙コップを握りしめて笑う。
秩序は「仕組み」で立ち上がる。その現場を見た消防隊員は、深く息をついた。
T+48h/東京湾〈大和〉CIC
「防災庁より広報テキスト受領」
通信士が読み上げる。
『政府は機能している。水は届く。医療は動く。火は止まる。通信は声で繋ぐ。治安は守られている』
オペレーターが送信キーを押す。短波、FM、スピーカーにその言葉が拡散していった。




