第85章 最初の政府機能
(T+5h/官邸地下と防災庁地下)
官邸地下危機管理センターの空気は、まだ焦げたプラスチックの匂いを漂わせていた。
非常灯の赤が人の顔を血色悪く染め、壁際のラックからは断続的に火花が散る。
総理・榊原敬一は深く椅子に座り込み、額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。
「……回線は?」
短く問う声に、通信技官が首を振る。
「第一系統、完全沈黙。第二系統、衛星アンテナの位相がずれています。三系統目、いま再調整中……」
作業員がラック下に潜り込み、ケーブルを交換している。
火花と焦げ臭い匂いの中で、ただ一つ残った発電機の唸り音だけが地下を満たしていた。
榊原は背筋を伸ばし、口を開いた。
「生存確認を取らねばならん。霞ヶ関は壊滅した。だが、防災庁の地下が生きている可能性がある」
官房長官・神谷俊介がうなずく。
「もし繋がれば、避難所の統括も、自治体との連絡も整理できます。首都圏の司令塔を一本にするためにも」
榊原は短く目を閉じた。
一つの回線が繋がるかどうか。それが国家の生死を分ける。
***
一方、防災庁地下の会議室。
沢渡結衣は、赤く光る非常灯の下で、古い端末のスイッチを押し込み続けていた。
「……応答して、お願い」
パネルの表示は、ノイズ混じりのまま変化がない。
隣に立つ防衛省出向の技官が首を振る。
「官邸のアンテナが生きていれば、もう反応があるはずなんですが」
沢渡は唇を噛んだ。
外界からの情報はほとんど途絶している。
わずかに入るのは、湾内の〈大和〉経由の断片的な通信だけ。
「政府中枢が、残っているかどうか」
それがわからないまま、彼女はここで決断を迫られていた。
***
T+5h、04:32。
二つの地下を結ぶ回線に、微かな変化が生じた。
防災庁の端末に、ノイズの隙間から低い信号音が割り込んできたのだ。
「……! ロックオンします!」
技官が声を上げた。
「周波数、17ギガ帯。帯域は狭いが、つながるかもしれません」
沢渡が息を呑み、マイクを握る。
「——こちら、防災庁地下第三会議室。生存者あり。応答願います!」
数秒の沈黙。
ノイズの海をかき分けるように、掠れた声が流れ込んできた。
「……こちら、官邸地下……生存している。……聞こえるか」
沢渡の目から涙がこぼれた。
「総理——! 生きておられたのですね!」
***
官邸地下。
通信士が親指を立てる。
「リンク、安定しました! パケット損失大ですが、音声は確保!」
榊原はマイクに体を寄せる。
「……防災庁地下、沢渡か。生きていたか」
「はい。こちらも二十数名、生存しています。外部との通信は断絶。避難所からの現場報告は紙でしか届きません」
「こちらも同じだ。官邸地上は崩落、内閣機能は実質ここに集約されている。……生存していてよかった」
沢渡は頷き、言葉を絞り出す。
「——国家はまだ生きています」
その一言に、地下の空気が変わった。
通信席の技官たちが互いに目を合わせ、小さく拳を握る。
誰も声には出さなかったが、その瞬間、ここにいた全員が「生き残りの核」を自覚した。
***
会話は途切れ途切れだったが、要点は伝わった。
——両拠点の生存確認。
——優先課題は水・医療・消火・通信・治安。
——〈大和〉を中継にして全国へのメッセージを発すること。
榊原は、かすかな声で最後に言った。
「沢渡。国民に言え。政府は機能している。どんな形であれ、それを一言で示せ」
沢渡は目を閉じ、頷いた。
「必ず」
***
通話が切れたあと、官邸地下には重い沈黙が戻った。
だが先ほどまでの焦燥はなかった。
「繋がった……」
通信士が小さく呟いた。
榊原はゆっくりと立ち上がり、壁際に立つスタッフを見回した。
「我々は生きている。ならば、七二時間を支配する。水から始める」
赤い非常灯の下で、総理の言葉は硬く響いた。
それは、焼け野原の中に立つか細い柱だった。
***
防災庁地下。
マイクを置いた沢渡は、深く息を吐き出した。
胸の奥で震える声を押し殺しながら、周囲を見回す。
「……官邸は生きています。総理と連絡が取れました」
会議室にいた誰もが、はじめは耳を疑ったように顔を上げた。
次の瞬間、疲労で濁っていた瞳に光が戻った。
「……じゃあ、本当に……」
「はい。私たちは、見捨てられていない」
沢渡は立ち上がり、ホワイトボードに黒マーカーで五文字を書いた。
水 医療 消火 通信 治安
「——これが総理の優先順です。ここから七二時間、命令はこの順番に従って流します」
その言葉と共に、赤い非常灯に照らされた会議室は、ようやく「国家の頭脳」として動き出した。




