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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン7
897/2554

第70章 限定的病院船《大和》



東京湾に浮かぶ《大和》の姿は、かつての「世界最大戦艦」の威容そのままであった。だが蒼井惟人・二等海尉の目には、その灰色の巨体がどこか仮面をかぶったように映っていた。

艦首甲板に並ぶのは三連装主砲の影ではなく、白いテント列だった。夜風に揺れる赤いクロスの印が、かつての武威を消し去るように光っている。


「……戦艦を病院にしてしまったか。」

蒼井は艦橋の窓から下を見下ろし、思わず口にした。


「正確には“病院船”じゃない。だが今は東京で唯一、医療を維持できるプラットフォームだ。」

隣に立つ副長が淡々と答える。

その声は、誇らしさと苦々しさが入り混じっていた。


艦内改装は拙速ながら徹底していた。

弾薬庫の一部は完全に片づけられ、代わりにベッドが何列も並んでいる。床には新しい配管が走り、点滴スタンドとモニターが設置され、酸素ボンベが並べられていた。

「病床数三百二十、うちICU三十二、陰圧病室六。」

副長がタブレットに映る数字を示す。蒼井は唇を結んだ。

かつて自分が砲術長に提出したのは射角や装填速度の報告だった。だがいま艦橋に上がってくるのは、病床やICUの稼働率である。


電力は潤沢だった。

艦の主発電機は人工呼吸器や透析装置、滅菌器、さらにX線装置を同時稼働させても針一本揺るがない。

海水淡水化装置は毎時数トンの清浄水を送り続け、手洗いも洗浄も惜しみなく使える。酸素濃縮装置と液体酸素タンクの備蓄は、数百人規模の吸入を一度に支えられた。

陸上の病院が停電で暗い廊下を息を殺すように使っているなか、この艦だけは煌々と光を保ち、機械を稼働させ続けていた。


だが限界もすぐに露呈した。

厚い隔壁はストレッチャーが通るたびに兵員の肩を打ち、狭い通路で担架は何度も詰まった。

水密扉を開けるたび、搬送の動線は遮断される。

「これじゃICUの一体運用は無理だ。三区画に分けざるを得ない。」

感染症担当の医官がそう言い捨てたことを、蒼井は思い出していた。

空調も再循環が基本で、陰圧ゾーニングなど夢のまた夢。感染症が持ち込まれれば艦内アウトブレイクが起きかねない。

器材や資材の搬送も課題だった。リフトは狭く、担架搬送には人員を増やさねばならなかった。


そして、なにより――兵員と医療員の矛盾。

「砲を磨くより担架を磨いてるのか、俺たちは。」

砲員のひとりが洩らした皮肉が蒼井の耳に残っていた。

たしかに砲塔は沈黙したままで、今艦内を支配しているのはAEDの警告音や輸液ポンプの滴下音だった。

公に「医療拠点」と謳えば赤十字を掲げる資格がある。だが艦は依然としてCICと兵装を保持しており、完全な病院船とは言えない。

その二重性は、乗員に罪悪感と違和感を刻みつけていた。


しかし、強みも確かに存在した。

艦載ドローン群は湾内を飛び回り、光学・赤外線・ミリ波レーダーで線量や降下物を測定している。

数秒ごとに更新されるマップには、緑の線で示された“BLUE LANE”が走り、救助艇の航路を導いていた。

ウェルデッキから改造LCVPが発進し、担架三列を固定したまま避難民を収容する。艇は黒雨を避けるための簡易シールドを備え、帰投時には艦尾で乾式拭き取りとミスト噴霧の簡易デコンを受ける。

「触れた手で顔に触れるな」と赤字で書かれた大きな看板が、風に揺れていた。


蒼井は艦橋の表示スクリーンを見やった。

そこに映っているのは敵艦のシルエットではない。

避難民の搬送経路、線量ホットスポット、帰投艇の残り時間。

――戦術表示が、医療と救援の航路に塗り替えられていた。


「USNS Mercy──サンディエゴ出港予定、一週間後。」

オペレーターの報告が流れる。

米海軍の病院船。千床規模、十二の手術室、八十以上のICU。世界でも最大級の「移動する病院」だ。

到着すれば、東京はようやく本格的な医療基盤を取り戻すだろう。

だがそれまでの七日間をどう埋めるのか――それが、蒼井たちに課せられた役目だった。


「一週間……」

蒼井は窓外の甲板に並ぶテント群を見つめ、息を吐いた。

そこでは母親が幼子を抱き、酸素マスクを付けられた兵士が眠り、兵員が懸命に担架を押していた。

戦艦の中にあって、いまそこにあるのは“病院”そのものだった。


やがて、艦内に警報が短く鳴った。

非常灯の赤が計器類に反射し、黒く沈んだ主CICの匂いを蒼井の鼻に届けた。

焼け焦げた配電盤、応急パッチの銀色。

艦の頭脳は、副CICに移っている。


「大気センサー復帰。」

電子戦士が報告し、副長が頷く。

「線量、艦周辺でバックグラウンド+α。ホットスポットは陸側、上昇傾向なし。」

NRBCオフィサーが続けた。

「上陸短時間活動は許容。復路での簡易デコン必須。」


副長は短く息を吐いた。

「……行ける。」


その瞬間、SATCOMの回線ランプが緑に切り替わった。

「こちら横田統合司令部。《大和》は湾岸部の避難民救出支援に入れ。艦載艇を展開し、“BLUE LANE”を使用、LZ/SZへピストン輸送せよ。」

米軍士官の落ち着いた声に、日本側の幕僚の短い日本語が重なった。


「東京港内、晴海・有明・新木場にコールドゾーン設定中。順次、デコン・仮設医療拠点を開設する。」


副長は即答する。

「了解。《大和》、全艇展開準備。」

手元スイッチを二度押し、艦内回線に命じた。

「各科、救難配置。ウェルデッキ開口!」


ベルが艦内に響き渡り、兵員たちの歩調が速まる。

砲術副主任である蒼井惟人も、深く息を吸った。

彼の視線の先では、かつて弾丸を運んだレールが、いま担架と医療資材を積むために唸りを上げていた。



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