第62章 報せの海
北朝鮮沖の海は、冬のように重く沈んでいた。艦橋の上には、通信アンテナが規則正しく回転し、短い電子音が絶え間なく鳴っている。
大友は米軍艦艇の士官室の隅に腰を下ろし、冷えたマグカップを両手で抱えていた。雑誌社から派遣された従軍記者として、ここ数週間はこの艦に乗り込み、北朝鮮を巡る緊迫した作戦行動を追っていた。しかし、その朝、艦内に走ったニュースは、彼の職業的冷静さを根底から打ち砕いた。
「東京に着弾……核弾頭だ」
艦内放送が英語と日本語で短く告げた瞬間、周囲の米軍兵士たちは沈黙した。誰も声を上げなかった。空気が凍り、ただ数秒間、機械音だけが響いていた。大友の耳に、次いで別の声が届いた。艦の通信士が封筒を手にして彼に近づいたのだ。
「ミスター・オオトモ、これは日本の編集部から……」
震える指先で封を破る。印字された文面は簡潔だった。
〈記者・野間遼介、東京にて被爆死。遺体は収容所に仮安置。身元引受人なし〉
文字が、意味を結ばない。何度も目を滑らせるたびに、言葉はさらに冷たく、硬く、現実を突きつけてきた。
「……野間が……死んだ?」
呟きは誰にも届かないほど小さかった。
野間の姿が、次々に脳裏に浮かぶ。雑誌社の編集室で、資料の山に埋もれながら冷静に分析を繰り返す横顔。台湾で共に取材した夜、ホテルの狭い机で缶ビールを分け合い、互いの記録ノートを読み上げ合ったこと。時に冷笑を浮かべながらも、誰よりも粘り強く現場に立ち続けた人間。
——あの野間が、もういない?
艦の窓越しに見える海は、鉛色の波頭を砕きながら果てなく広がっていた。遠くには護衛艦の灯が淡く瞬いている。それらの光景は現実のはずなのに、大友には自分が夢の底に引きずり込まれたように思えた。
「大友、聞いたのか」
声をかけたのは、同じく艦に乗り込んでいる米軍広報官だった。彼は気の毒そうに肩を叩いた。
「君が一番近しい人物らしい。……遺体の件、引き取りを考えた方がいい」
その言葉で、ようやく現実が大友の胸に沈んだ。野間には身寄りがない。兄弟も遠縁もすでに疎遠。親は早くに亡くなっている。職場も今や東京で崩壊状態だ。——引き取れるのは、自分しかいない。
「米軍が協力する。君は従軍記者の身分だから、沿岸まで小型艇で送ることは可能だ。ただ、そこから先は……日本の混乱に身を委ねるしかない」
広報官の声が遠くで響いた。大友は頷くしかなかった。
野間と交わした手紙の束を机に広げると、そこには几帳面な字でびっしりと書かれた文章が並んでいた。取材先で見た風景の細部、出会った人々の癖のある話し方、疲れても執念深く調べ続ける彼らしい視点。
読み返すたび、声がすぐ傍に甦るようだった。笑いながら毒を吐き、夜更けにコーヒーを飲み過ぎて胃を痛める姿。時に頑固で融通が利かないのに、現場では人に真っ直ぐ向き合い、誤魔化しを嫌った。
手紙の行間に残された彼の筆圧だけが、現実を裏付けている。そこに確かにいた人物が、今は横浜の収容所に仮安置されている。家族も親戚も名乗りを上げられない中で、残された自分が動かなければ、彼は誰にも迎えられない。
ただそれだけだった。理由も理念も要らない。彼の名を呼び、顔を知る者が自ら行って、その亡骸を迎えに行く。それが、大友にとって唯一の選択肢だった
夜、艦の食堂で配られた夕食を前に、大友は箸を動かせなかった。周囲の兵士たちは無理に笑い声を立てているが、視線の奥には緊張が滲んでいる。東京に核が落ちた。次はどこか。自分たちの任務は変わるのか。誰もが胸の奥で恐怖を隠しきれていない。
「オオトモ、明日には移送を手配する」
艦長が短く告げた。
「山陰の港まで小型艇で送る。その後は、自分の力で」
大友は深く頭を下げた。日本の地を離れて数週間、戦場の気配と海風にまみれてきた。しかし明日からは、崩れた祖国の現実に直面することになる。公共交通は機能しているのか。タクシーは走っているのか。道は通じているのか。すべては不確かだ。
それでも、横浜へ行かねばならない。野間の遺体が仮安置されているという収容所へ。誰も迎えに来ない彼を、自分が迎えに行かねば。
夜の海が静かにうねる。甲板に立ち、北の闇を見渡しながら、大友は拳を握りしめた。
「野間……必ず迎えに行く」




