第61章 命のともしび
夜半、発電機が再び唸り、小さな灯が二つ点いた。佐伯はそれを待っていたかのように、古い携帯型の血球計を取り出した。バッテリーは生きている。「一人、だけ」と彼は言う。彼は私の指を取った。針の痛み、血の赤、薄いガラスに伸びる帯。「白血球は……」彼は言葉を切り、静かに顔を上げた。
「極めて低い。あなたは――あなたも患者だ」。私は笑ったのかもしれない。口の端から血が滲み、笑いはすぐに痛みに変わった。私はノートをめくり、書いた。「DAY3、夜。自分の白血球、消えかけ」。字は踊り、紙は汗で柔らかくなり、鉛筆は短くなる。
眠りは波の端に立つように訪れる。うとうとと落ちると、すぐに夢が現実の襟を掴んで引き戻す。夢の中で、私は再び初日の路上にいる。白い光、黒い影、走る群衆。あのとき、私が助け起こした青年は翌日笑っていた。「食べられます」と彼は言った。二日目の午後、彼は下痢と嘔吐で倒れ、三日目の朝、布で顔を覆われた。夢の中の私は、その布を捲りたい衝動と戦う。捲ってしまえば、彼は完全に過去になる。捲らなければ、まだ現在の端にいる。私は布の縁に指を置き、やめる。布は湿って重い。
別の夢では、救護所の白い板に太い字で書かれた一覧が現れる。
「0–12h:嘔吐、頭痛、めまい」「12–24h:潜伏の兆候」「24–48h:下痢、口腔潰瘍」「48–72h:発熱、出血、敗血症」。
それは医学的真実であり、同時に、一人ひとりの顔を薄めてしまう残酷な整理でもある。私は板書の下に小さな字を付け足す。「佐々木(仮名)、二日目に笑う。三日目死亡」「斎藤(仮名)、子ども。母の手を離さず、発熱」。名を記すことは、夢が流し去るものに杭を打つ作業だ。杭もいつか腐る。それでも打つ。記者だからではなく、今ここにいる自分のために。
意識が水面に戻るたび、体育館の天井の黒い穴が私を見下ろしている。湿った木の匂い。遠くのサイレン。近くの寝息。私は腹の奥で波がまた起きるのを感じ、体を丸め、静かに吐いた。朝倉が気づいて駆け寄り、背中をさする。「大丈夫。ここにいます」。私は頷く。頷くたびに世界がぶれる。彼女は続ける。
「明日、外からの支援が入るかもしれない。輸液車が来ると」。その言葉は、明日を指差すだけで、今を軽くしない。私はわかっている。七十二時間を越えた今から、死者は一気に増える。敗血症の嵐は加速し、出血は止まらず、眠りに落ちた人は多く戻らない。だが、その言葉がここにいる誰かの手を離させないのなら、意味がある。
ノートの最後のページに、私は書く。文字は途切れ途切れだが、意味はつながっている。
「前駆期――嘔吐(TTE短)、頭痛。潜伏期――見かけの静けさ、骨髄崩壊。再燃――消化管、口腔、発熱。三日目――敗血症、出血、脱毛、点状出血。医療――冷却、圧迫、湿らせた水、煮沸布。選別――明日に渡す者」。
そして少し間を置き、もう一行。「私」。それ以上の説明は不要だと思った。
夢がまた襲ってくる。今度は青い空の夢だ。事件の前日の空、真夏の空、雲は薄く、ビルのガラスに映る。私はその空を見上げ、何かを書こうとしている。ノートは白く、鉛筆は長い。そこへ、遠くの雷のような音がして、雲の裏が一瞬だけ白く光る。
野間は顔を背け、しかし次の瞬間、光は現実に戻る。天井の黒い穴。私は深く息を吸い、咳き込み、唇から血が滲む。朝倉がまたタオルを替え、耳元でささやく。「記者さん、まだ書けますか」。私は小さく頷く。書けるうちは生きている。書くことは、細い骨に布を巻くみたいに、形の危ういものに圧迫をかける行為だ。止血にはならない。それでも、出血を見て見ぬふりをしないために必要だ。
体育館の隅で、佐伯が壁にもたれ、目を閉じている。丹羽が窓の外を見ている。朝倉が私の手を握っている。三人の手の動きと呼吸が、波の規則のように重なる。そのリズムに合わせて、私は最後の力で文字を引く。「今、ここにいます」。夢はまた来る。明日は――来るだろう。たぶん。




