第60章 野間 被曝
——そして三日目。
今、野間が横たわっている体育館の夜に、夢は追いつく。床の冷たさ、濡れた段ボールの匂い、隅に積まれた黒い袋――人だ。ここへ運び込まれてからのことを、私は夢—現実の境で、臓器の順番で思い返す。
まず腸が負けた。昨夜から水のような下痢が止まらない。脱水でふくらはぎの筋肉が攣る。指先は乾燥し、紙をめくると裂ける。次に口腔。歯茎は腫れて触れると出血、舌の側縁が白くただれ、飲み込む動きが刃物に触れるような痛みに変わった。喉は狭く、呼吸は浅く速い。体温計はないが、額の熱でわかる。高い。看護師が濡れたタオルを額に乗せる。ありがたい。しかし五分で温くなる。
医師の声がする。佐伯医師だ。何度も私に説明してくれた。説明は彼自身にも必要なのだろう、納得のために。「白血球、とくに好中球が激減すると、体の中は外界になる。腸管の中の常在菌が、傷ついた粘膜から血流に乗る。発熱、戦慄、血圧低下。敗血症の始まりだ。
G-CSFがあれば骨髄を叩けるが、ここにはない。抗菌薬も底だ」。私は頷くつもりでまぶたを動かす。彼は続ける。「血小板も落ちている。点状出血が腕に出ているだろう?――それが皮膚の声だ。鼻血、歯茎出血、黒色便。止血は難しい。輸血があれば、と何度も思う」。彼は私の腕の包帯を替え、深呼吸しろと言う。深呼吸をすると、肺が紙風船のように薄い音を立てた。
看護師の朝倉が、隣の女性の髪をそっと集めて結わえ直している。毛束は半分以上が抜け落ち、結び目が空をつかむように軽い。「大丈夫」と彼女は言う。「この髪はまた生える人もいる。今は感染に負けないこと」。女性は微笑み、その直後に喉から血を吐いた。朝倉の瞳が揺れた。彼女は泣かない。泣くことを時間の裏に押し込めて、別の布を探す。
「塩化ナトリウムは?」「ない。水だけ」「消毒薬は?」「底。湯を沸かす」。湯を沸かす――非常発電機が一時間だけ生き返った夕方、彼女たちは鍋を並べ、布を煮た。熱い湯気が体育館の空気を一瞬だけ優しくした。私はその湯気に頬を浸けたいと思った。
軍医の丹羽が、三人の医師と小さな円になっている。「選別を」と彼は言う。声は低く、しかし誰よりもはっきりしている。「輸液も抗菌薬もない。呼吸も弱く、反応が乏しい者に、我々の時間を使うのか。対話でき、歩ける者に手を回すべきだ」。沈黙。やがて佐伯が頷く。「明日、救援が来るかもしれない。ここを越えられる者を、明日に渡す」。私は耳を塞ぎたかった。記者として、言葉をそのまま書き取るべきだと頭は言う。「トリアージ」。患者として、言葉を燃やしてほしいと体は訴える。私はノートの端に、震える文字で書いた。「明日に渡す者」。線が曲がり、文字が重なった。
私自身の症状を忘れるふりをやめる。頭皮に指を通す。髪は簡単に抜ける。束で。毛根に付いた白い鞘が光る。皮膚は熱く、しかし末端は冷たい。指の腹で腕をなぞると、米粒ほどの赤い点が散っている。点状出血。ふくらはぎを押すと、遅れて痛みが上がる。電解質が乱れているのだろう。カリウム、ナトリウム、クロール。数字で考える癖が残っている。が、ここに数字はない。あるのは体の内側の鈍い鐘と、外側の湿った音だ。向こうで誰かが吐き、別の誰かが「水を」と言い、さらに遠くで子どもが泣いている。子どもにだけは、と誰もが思う。だが子どもの腸は、菌に公平だ。
夕方、窓の外で短い雨が降った。煤を含んだ黒い雨。空中爆発なら降下物は少ないはずだ、と誰かが言った。雨粒は大きく、屋根を叩いた。臭いは布と同じ、焦げと水の匂い。雨が上がると、体育館の半分だけ空気が冷えた。四方から湿った風が入り、灯の残り香を追い出した。それは一瞬の救いだった。夢はそこに青色を置き、次の瞬間、青は赤に塗り変わる。隣の男性が痙攣したのだ。丹羽が駆け寄る。「体温は?」「計れない」「冷やせ」。脇の下と首に濡れタオル。痙攣は収まり、男は息を吐いた。彼の目は天井の黒い穴を見つめ、何か言おうとして、言わなかった。朝倉が彼の手を握る。「ここにいます」。その言葉は唯一の薬のようだった。




