第59章 野間の回想
体育館の天井が波打って見える。蛍光灯は落ち、梁にぶら下がった電線が暗い舌のように揺れている。床は濡れた段ボールと毛布でまだらに覆われ、そこかしこに黒ずんだ円形の染み――血と吐瀉物と、乾ききらなかった水。
野間はその端に体を横たえ、膝に置いたノートを指先でたたく。鉛筆を握るたび、芯が折れ、息が切れる。三日目の夜。記録しなければと思うのに、まぶたの裏から津波のように夢がせり上がり、現実と混ざって離れない。
——閃光。
目を閉じても、まぶしさが内側から染み出してくる。霞ヶ関の窓際に立っていた。午前八時台、午前会の資料を捲っていた瞬間、白がすべてを押し流した。十数秒遅れて、押し込められた空気が反動で爆ぜ、壁の石膏が粉雪のように降った。瓦解音、ガラスの雨、同僚の叫び。熱が、膜ではなく刃になって頬を撫で、髪の先が焼ける匂いがした。
そこで野間の夢はいつも一度止まる。胃が内側から絞られ、膝が崩れる。吐いた。時刻を見ていたら「四十分以内」だったろう、と今ならわかる。嘔吐までの時間は線量の荒い目安だ。TTE――time to emesis。医師たちが口にしていた英単語が、夢の中で透明な札になって宙にぶら下がる。「四十分以内は六グレイ超が多い」。ネーム札は風に揺れる。ぶらぶら。ばらばら。しがみついた肘に、割れた窓枠のアルミが食い込み、血が垂れた。
ビルを出た路上は、炎と影の博物館だった。衣服はちらちらと燃え、皮膚は水袋になり、流れた。水、水、と何百という口が同じ言葉を繰り返す。日比谷公園へ向かう群れ、皇居のお堀へ駆ける影。
私は九段下へ流された。後でわかったことだが、そこに最初の臨時救護ができていた。体育館にも似た大きな空間――今のこの体育館ではない別の場所――で、若い医師が声を張り上げていた。「流水で冷やす!布を煮沸して包帯代わりに!気道が焼けている人はうつ伏せ!」彼らの手はほとんど素手だった。点滴セットは数十本。選別の目は速かった。カラータグはないのに、目で色分けしているのがわかる。
「呼吸なし」無言、「呼吸あり・反応微弱」簡単な止血、「呼吸あり・対話可能」破片の除去。そこへ運ばれてきた男が担架の上で激しく吐いた。まだ午前。医師が私のほうを一瞥し、小声で言った。「一時間以内の嘔吐は、少なくとも中等量以上の全身被曝……」。私はポケットからメモ帳を出し、鉛筆を走らせた。「前駆期、嘔吐、頭痛」。書いた先から、視界がにじむ。頭の中の鈴が鳴り続け、世界の輪郭が柔らかくなる。気づくと、私の左腕には細いガラス片が二本、魚骨のように刺さっていた。誰かが引き抜き、布で巻き、冷たい水を掛けた。私は礼を言い、また吐いた。
夢の時間は驚くほど医学的だ。目の前の誰かが息を吸うたび、口腔の奥に白い膜が育っていくのが見える。あれは後の口腔粘膜潰瘍の芽だ。早すぎる、と医師が言う。「十二時間も経っていないのに……」熱傷と放射線の複合。私は暗い廊下に座り、ノートに書き付ける。「被曝当日:前駆症状――嘔吐、悪心、頭痛、めまい。火傷冷却。気道熱傷注意。輸液なし」。紙の上に落ちたしずくが、文字をにじませる。涙だった。私は泣いていた。野間がもう記者ではなく患者だと理解したとき、体の芯がすうっと冷えた。
——二日目。
夢の中の朝は薄い黄色で塗られている。煙は灰色、空は金属のように鈍い。救護所(体育館ではないほう)は少し静かになった。嘔吐の波が引き、呻き声が小さくなる。だが医師の顔は明るくならない。
「潜伏期に入っただけだ」と彼は言う。「見かけは落ち着くが、骨髄では壊死が始まっている」。野間はその言葉をノートに写し、鉛筆を噛む。歯茎から鉄の味が出た。少しして看護師が叫んだ。「この人、歯茎から血が止まりません!」三十代の男、顔色は灰、口から鮮紅色が糸を引く。医師は押さえた指を見せ、首を横に振る。「血小板が落ちている。止血は難しい」。
私は自分の腕の紅斑を見た。昨日より輪郭がはっきりしている。指でなぞると、皮膚が熱い。隣で若い女性が髪を梳いている。梳くたび、手の中に髪が残る。「ああ……」と小さく漏らし、彼女は毛布で頭を隠した。脱毛。線量の札がまた揺れる。六グレイの札。四か、八か。私は自分の札が読めない。
午後、ひとりの女性が急に下痢と嘔吐を再開した。午前に笑ってスナック菓子を口にしていた人だ。医師が脈を取り、首を振る。「潜伏期の終わり。消化管症候群が出る」。私はメモする。「24–48h:潜伏→再燃。下痢、腹痛、口腔痛」。
生理食塩水は尽き、口から与えた水はすぐに吐かれる。布で湿らせた水を唇に当てるしかない。看護師が私に布を渡し、「あなたも」と言った。私は唇に水を当てる。吸っているのか、にじませているのか、自分でわからない。のどは紙やすりになり、唾液が減り、飲み込むたびに火が走る。
夜になると、複数の患者の口腔に白い潰瘍が見えた。歯茎の縁は炎症で崩れ、唇の皮はささくれ立ち、話すと裂ける。看護師が消毒液の瓶を探し回る。小瓶が一つ。棉棒もない。私は布の端をねじって棉棒の代わりにし、隣の青年の口元をそっと拭った。彼は少し首を傾け、かすれ声で言う。「ありがとう」。私は頷くしかできない。




