塩屋湾の砦――戦わずして稼ぐ時間
## エピソード87 塩屋湾の砦にて
昭和二十年四月二十二日、午後二時。
沖縄本島北部、塩屋湾。
潮が引き始めていた。
浅瀬へ船体を固定した護衛艦「いずも」は、もはや洋上を走る艦ではない。
灰色の巨大な船腹の周囲では砂泥が露出し始め、右舷側には朝方帰還した潜水艦「そうりゅう」が係留されている。
飛行甲板には航空機の姿がなかった。
沖縄上空で最後まで戦ったF-35Bも、もう戻ってこない。
片倉一等海佐は艦橋前方の甲板に立ち、静かな湾口を見つめていた。
背後から神谷一佐が近づく。
「司令。現状報告です」
「聞こう」
神谷は手帳を開いた。
「航空戦力、稼働機なし。長射程誘導弾、実質払底。『そうりゅう』魚雷残数ゼロ。AIP再使用不能」
片倉は振り返らない。
「本艦は」
「主機停止を継続。残存燃料は非常発電と補機運転用に統制中です」
「OPS-50は?」
「常時広域走査はやめています。受動監視を基本とし、首里または沿岸見張所から警報が入った場合のみ、必要な方位へ短時間のセクター走査を実施します」
「それでいい」
未来のレーダーだからといって、電波を出し続ければよいわけではない。
電力を食う。
冷却も必要になる。
そして何より、自らの位置と活動状況を敵の電波情報部隊へ知らせることになる。
「首里との回線は」
「有線二系統とも生きています。一方が切断されても迂回可能です。ただし、陸上区間は砲撃による断線が続いています」
「通信班を分散しておけ」
「了解」
片倉はようやく振り返った。
甲板の向こう。
係留された「そうりゅう」の黒い船体が見える。
あの潜水艦は魚雷を撃ち尽くした。
「いずも」は飛行機を失った。
「むらさめ」も「矢矧」も、海岸へ固定されている。
そして「まや」は大和とともに本土へ去った。
片倉が呟いた。
「本当に、何もなくなったな」
神谷は答えなかった。
「最初に大和と出会った時、我々はどれほど残弾があった」
「正確な数字を申し上げますか」
「いや」
片倉は首を振った。
「覚えている」
あの時は、ミサイルもあった。
航空機もあった。
燃料もあった。
それでも彼は、有賀幸作へ告げた。
――一発撃てば、二度と補充できない。
未来の兵器は有限だと。
その言葉通りになっただけだった。
「だが、大和は呉へ着いた」
神谷が言った。
片倉は黙って頷く。
「レーガンも戦域を離れた」
「そうだ」
「首里も持ちこたえています」
片倉は塩屋湾の南、そのさらに彼方にある首里の方向を見る。
今朝、牛島満中将は全軍へ自決禁止を命じた。
敵を海へ追い落とすためではない。
生き残り、本土で進み始めた政治交渉が結果を出すまで陣地を保持するためだ。
「東京から何か?」
「直接の確報ではありません」
神谷は慎重に答えた。
「ただ、首里経由の情報では、外務省が中立国方面との通信を増やしているとのことです」
片倉の目が細くなる。
「始まったか」
それ以上は言わなかった。
外交が成功する保証などない。
米国が和平打診に応じる保証もない。
陸軍内部が最後まで従う保証すらない。
まして未来を知る自分たちにも、これから先の歴史はもう分からなかった。
すでに世界は、彼らが知っていた一九四五年から外れている。
片倉は手すりへ両手を置いた。
「神谷」
「はい」
「我々は勝ったと思うか」
神谷は少し考えた。
「分かりません」
片倉は僅かに笑った。
「それでいい」
勝敗を決めるには、まだ早すぎる。
日本軍は依然として包囲されている。
米軍の工業力も海軍力も失われていない。
「我々がやったのは、米軍を倒したことではない」
片倉は言った。
「破滅へ一直線だった流れを、ほんの少し曲げただけだ」
神谷が静かに頷いた。
「そのために、全部使いました」
「そうだ」
片倉は海を見た。
「ミサイルも、魚雷も、航空燃料も」
少し間を置く。
「だが、無駄ではなかった」
大和は沈まず本土へ帰った。
レーガンは撃沈されず、しかし攻撃を断念した。
首里では兵士が突撃せず生き残っている。
そして東京では、軍人ではなく外交官が次の一手を打とうとしている。
片倉は低く言った。
「我々の弾薬は、すべて尽きた」
神谷が横を向く。
「ですが司令――」
片倉は続けた。
「破滅を止める歯車は、噛み合った」
午後二時十三分。
塩屋湾には砲声がなかった。
固定された「いずも」のレーダーも沈黙している。
海面では、波が船体を小さく叩いていた。
未来艦隊は、もう戦場を支配する力を持っていない。
だからこそ片倉は、その静けさを敗北とは思わなかった。
兵器が沈黙したあとに、政治が動き始める。
それこそが、最初から彼らが作ろうとしていた時間だった。
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