第39章 しんかい6500 海溝
2027年11月12日 05:18 JST/相模湾沖・水深6,300メートル
沈降は止まらなかった。
衝撃波で破壊されたバラスト制御系は復旧せず、〈しんかい6500〉は暗闇を加速しながら落下していった。圧力殻の外には、すでに定格深度を超えた水圧が襲いかかっている。
「水深、六千……六千百……!」
渡辺亮の声は裏返っていた。
計器の針は限界を振り切り、赤ランプが連続して点滅している。
艇体は軋みを上げ、まるで巨大な手で握り潰されるように鳴った。誰もが次の瞬間、殻が破裂し、深海の黒水が雪崩れ込む映像を思い描いていた。
だが——。
「歪み計、上昇止まった!」
村瀬航平が叫んだ。
圧力殻は変形しながらも臨界を超えず、応力センサーの数値が一定で踏みとどまった。厚さ七三ミリのチタン合金球殻が、辛うじて外界の六十三メガパスカルを支えていたのだ。
「持ち堪えてる……?」
藤堂真理の声は震えていた。涙と汗が額を伝い、彼女は必死にモニタへ視線を固定した。
「……奇跡的に、球殻が応力を分散しているのかもしれない。クラックの進展が止まってる……!」
その刹那、艇底から鈍い衝撃音。
「着底!」
渡辺が叫んだ。
〈しんかい6500〉は沈降の末、相模トラフの傾斜した海底に到達したのだ。
衝撃は小さな地震のように艇内を揺らし、棚に積まれていた観測機器が床に散乱した。だが圧壊は起きなかった。
艇内に残ったのは、重い沈黙と、荒い呼吸音だけだった。
——
「……生きてる」
村瀬が低く言った。操縦席に全身を預けたまま、肩が大きく上下している。
「圧壊は……避けられた」
「でも……上昇機構は完全に沈黙です」
渡辺が青ざめた顔で答えた。浮力タンクは破損し、バラストの操作も不能。〈しんかい6500〉は、今や自力で浮上する力を持たない。
藤堂はデータ保存装置を握りしめたまま、ふと外の窓に目をやった。
そこには、懸濁粒子に霞む暗闇と、ゆるやかに揺れる泥質の海底が広がっていた。
「ここは……プレート境界直上……」
科学者としての思考が、なお口を突いて出る。
「本来なら観測不能な水深域……これもデータよ。生きて持ち帰れば……」
「博士」村瀬が遮った。
「生きて帰る術を探さなきゃならない」
彼は必死に計器を確認した。バッテリーは生きている。外部カメラの一部も稼働していた。だが酸素残量は限られ、救助が来るまでの猶予は一日足らずだ。
「母船は……あの衝撃で無事だろうか」
渡辺が呟いた。返答はなかった。
——
外殻は軋みながらも静止した。
深海の暗闇の中で、〈しんかい6500〉はまるで墓標のように海底に横たわっていた。
藤堂は震える指でコンソールに文字を打ち込んだ。
「観測ログ:爆発衝撃波による異常応力、耐圧殻は臨界を超えず着底。艇は生存」
それは、誰に読まれるかわからない記録だった。だが彼女は手を止めなかった。
村瀬は短く息を吐き、二人に言った。
「……終わってはいない。ここで持ち堪えた以上、まだ希望はある」
渡辺が苦笑した。
「沈んでも……壊れなければ、生きてる。皮肉ですね」
艇内に、誰ともなく笑いとも嗚咽ともつかぬ声が漏れた。
生と死の境界に取り残されながらも、彼らはまだ科学者であり、観測者であり、人間だった。
——深海六千三百メートル。
〈しんかい6500〉は海底に座し、重圧と沈黙に包まれながら、次の瞬間を待っていた。




