表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン7

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

866/3576

第39章 しんかい6500 海溝



2027年11月12日 05:18 JST/相模湾沖・水深6,300メートル


沈降は止まらなかった。

衝撃波で破壊されたバラスト制御系は復旧せず、〈しんかい6500〉は暗闇を加速しながら落下していった。圧力殻の外には、すでに定格深度を超えた水圧が襲いかかっている。


「水深、六千……六千百……!」

渡辺亮の声は裏返っていた。

計器の針は限界を振り切り、赤ランプが連続して点滅している。


艇体は軋みを上げ、まるで巨大な手で握り潰されるように鳴った。誰もが次の瞬間、殻が破裂し、深海の黒水が雪崩れ込む映像を思い描いていた。


だが——。


「歪み計、上昇止まった!」

村瀬航平が叫んだ。

圧力殻は変形しながらも臨界を超えず、応力センサーの数値が一定で踏みとどまった。厚さ七三ミリのチタン合金球殻が、辛うじて外界の六十三メガパスカルを支えていたのだ。


「持ち堪えてる……?」

藤堂真理の声は震えていた。涙と汗が額を伝い、彼女は必死にモニタへ視線を固定した。

「……奇跡的に、球殻が応力を分散しているのかもしれない。クラックの進展が止まってる……!」


その刹那、艇底から鈍い衝撃音。

「着底!」

渡辺が叫んだ。


〈しんかい6500〉は沈降の末、相模トラフの傾斜した海底に到達したのだ。

衝撃は小さな地震のように艇内を揺らし、棚に積まれていた観測機器が床に散乱した。だが圧壊は起きなかった。


艇内に残ったのは、重い沈黙と、荒い呼吸音だけだった。


——


「……生きてる」

村瀬が低く言った。操縦席に全身を預けたまま、肩が大きく上下している。

「圧壊は……避けられた」


「でも……上昇機構は完全に沈黙です」

渡辺が青ざめた顔で答えた。浮力タンクは破損し、バラストの操作も不能。〈しんかい6500〉は、今や自力で浮上する力を持たない。


藤堂はデータ保存装置を握りしめたまま、ふと外の窓に目をやった。

そこには、懸濁粒子に霞む暗闇と、ゆるやかに揺れる泥質の海底が広がっていた。

「ここは……プレート境界直上……」

科学者としての思考が、なお口を突いて出る。

「本来なら観測不能な水深域……これもデータよ。生きて持ち帰れば……」


「博士」村瀬が遮った。

「生きて帰る術を探さなきゃならない」


彼は必死に計器を確認した。バッテリーは生きている。外部カメラの一部も稼働していた。だが酸素残量は限られ、救助が来るまでの猶予は一日足らずだ。


「母船は……あの衝撃で無事だろうか」

渡辺が呟いた。返答はなかった。


——


外殻は軋みながらも静止した。

深海の暗闇の中で、〈しんかい6500〉はまるで墓標のように海底に横たわっていた。


藤堂は震える指でコンソールに文字を打ち込んだ。

「観測ログ:爆発衝撃波による異常応力、耐圧殻は臨界を超えず着底。艇は生存」


それは、誰に読まれるかわからない記録だった。だが彼女は手を止めなかった。


村瀬は短く息を吐き、二人に言った。

「……終わってはいない。ここで持ち堪えた以上、まだ希望はある」


渡辺が苦笑した。

「沈んでも……壊れなければ、生きてる。皮肉ですね」


艇内に、誰ともなく笑いとも嗚咽ともつかぬ声が漏れた。

生と死の境界に取り残されながらも、彼らはまだ科学者であり、観測者であり、人間だった。


——深海六千三百メートル。

〈しんかい6500〉は海底に座し、重圧と沈黙に包まれながら、次の瞬間を待っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ