第36章 〈しんかい6500:深海の報せ〉
艇内に低い唸りだけが響いていた。圧力殻の外は水深6000メートルの暗闇。観測データと格闘していた藤堂真理の耳に、突然、ヘッドセット越しのノイズ混じりの声が飛び込んできた。
「……こちら〈よこすか〉……緊急……東京が……攻撃を受けている。北朝鮮……弾道ミサイル着弾……繰り返す……」
藤堂は息を呑み、言葉を失った。
「……なんですって?」
渡辺亮が顔を上げ、あり得ないとでも言いたげに目を見開く。
「東京に……弾道ミサイル? まさか……」
操縦席の村瀬航平は、パネルに手を伸ばし、母船との通信をクリアにしようと周波数を調整した。軍用機での経験から、危機時にはまず情報の確定だと知っている。だが、ノイズの奥から聞こえる言葉は変わらなかった。
「東京……複数の着弾……政府機能、一部壊滅……至急浮上、帰還を……」
静寂が、圧力よりも重く艇内を押し潰した。
村瀬は短く息を吐き、冷徹な声を発した。
「緊急浮上だ。ここに留まる意味はない」
藤堂はまだ計器を握ったまま動けずにいた。
「でも……データが……この兆候は……」
「博士!」村瀬の声が鋭く響いた。「地震より今は首都の壊滅だ。深海にデータを残しても意味はない」
渡辺が震える指でモニタを閉じ、うなずいた。
「藤堂さん、僕らがここで死んだら何も残らない。生還して、今の観測を報告するしかない」
藤堂は硬く目を閉じ、決意の吐息を漏らした。
「……わかった。浮上手順に入って」
村瀬は操縦桿を握り直し、緊急浮上モードに切り替えた。
油圧音が低く唸り、浮力調整タンクからバラスト鉄が放出される。艇体がわずかに震え、浮上を始める。
「浮上開始、上昇速度0.8メートル毎秒。予定より速いが……許容範囲内」村瀬が冷静に報告する。
しかし、深海からの浮上は単純ではなかった。急激な上昇は耐圧殻に異常な応力を与え、計器に微細な歪みが表示される。
「応力センサー、閾値ぎりぎり……」渡辺が読み上げる。
「持つの?」
「持たせるんだ」村瀬は低く答えた。
艇は暗黒の水柱を切り裂きながら、わずかに傾きつつ上昇を続ける。窓の外には、光に舞う懸濁粒子が流星のように後方へと散っていった。
藤堂はまだ震える声で呟いた。
「東京が……もし壊滅したのなら、私たちの役割は……」
「博士」村瀬が短く遮った。「生き残ることが役割だ。まずはそれだけだ」
母船から再び断片的な声が届いた。
「……首都圏……壊滅的……国防総省……全艦隊……」
渡辺が唇を噛み、操作ログに書き込む。
「これ以上聞いてたら正気を失いそうだ」
村瀬は視線を前に固定し、声を低くした。
「俺たちは潜っていた。だが、戻ったときには世界が変わっているかもしれない」
艇体は、圧倒的な水圧を背負いながら、少しずつ、だが確実に光のある方角へと浮上していった。




