第33章 しんかい6500 潜航:Ω計画
艇が母船から切り離され、暗い海に沈み込んでいく。操縦席に座るのは、元空軍パイロットであり、現在はJAMSTECと共同任務に派遣された操縦士・村瀬航平。彼は操縦桿を握り、細かな姿勢の乱れを確実に補正していた。右に流れる艇体を即座に左舷スラスタで押さえ込み、安定姿勢を維持する。
「ピッチ安定、ロール補正完了」
航空自衛隊時代に培った癖の残る、短く乾いた報告が艇内に響く。
深度計の針がじりじりと下がる中、村瀬は眉を寄せて口を開いた。
「なあ……これって本当に“地震”だけの話なのか? 管制が言ってただろ、“時空の歪み”が観測されてるって」
声に応じたのは、艇内で調査指揮を担う地質学者で主任研究員の藤堂真理だった。冷静な声色で、彼女はコンソールの波形を指し示す。
「そう。相模トラフはプレート境界の研究対象であると同時に、“Ω計画”の監視ポイントでもあるの。普通なら地震波や重力異常しか記録されないはずが、ここでは“説明できない同期信号”が出ている」
横でノートPCを操作していた工学系研究員・渡辺亮が画面を覗き込み、補足した。
「これを見ろ。シータ波帯域、4〜8Hz。観測機器は無機質なセンサーのはずなのに、揺れのパターンが人間の脳波のリズムと妙に重なっているんだ」
元パイロットの村瀬は、思わず声を荒げた。
「断層と人間の脳がシンクロするってのか? ……冗談じゃなく?」
「冗談じゃないわ」藤堂はきっぱりと首を振った。「国際チームで再解析済み。誤差やノイズじゃない。だから私たちは“原因”を探してるの」
渡辺は肩をすくめ、わざと軽口を交えてみせた。
「要するに“時空がぐにゃっとしてる場所”ってことさ。もし車で走れば、GPSが“ここは東京だ”“いやハワイだ”って言い争いを始めるくらいにね」
村瀬は苦笑して操縦桿を握り直した。
「笑えん冗談だな……。で、その歪みと地震にどう関係する?」
藤堂はモニタを指でなぞりながら言葉を並べる。
「仮説は三つあるわ。
一つ、高圧流体の移動による電磁信号。
二つ、断層鉱物の相転移による量子レベルの干渉。
そして三つ目……この海域そのものが**“時間の流れを乱す現象域”**になっている可能性」
村瀬は低く呟いた。
「時間の流れが乱れる……? 戦闘機のHUDが一瞬先を映すみたいなもんか」
「その通りだ」渡辺が頷いた。「もしそうなら、俺たちは“予知”じゃなく“未来の断片”を覗いていることになる」
藤堂は声を落とし、真剣な表情で続けた。
「だから大事なの。南海トラフ一括破壊のリスクを測る調査が、そのまま“Ω計画”の実験になる。プレートの歪と時空の歪、両方がここで重なっているかもしれないの」
村瀬は息を吐いた。
「……つまり俺たちは“大地震の震源地”に潜ってるだけじゃなく、“時空の震源地”にもいるわけだ」
渡辺が口角を上げて笑った。
「ご明察。気をつけろよ。次に目を開けたら、腕時計が未来の日付を指してるかもしれないぞ」
「冗談に聞こえるけど、否定はできない」藤堂は表情を崩さずに言った。「ISS滞在中に一度だけ“脳波の同期異常”を経験した。その記録が、この相模の波形と一致していたの」
その瞬間、計器が低く唸り、赤いラインが画面を走った。
「観測機器に高周波ノイズ……通常の地震波形じゃない」村瀬が操縦士として冷静に報告する。
藤堂の目が鋭くなる。
「……来たわね。これがΩ計画でいう“干渉帯”。」
村瀬は無意識に肩へ力を込め、渡辺はデータを記録し続けた。深海の闇の向こうに、プレート境界だけでなく“目に見えぬ境界”が横たわっている気配が漂っていた。




