第31章 失われた輪郭
靖国通りを東へ。神保町交差点を越えた先。
野間は、半壊した「ミズノ書店」跡で、ひときわ目を引く人影に気づいた。
老婦人だった。
くすんだエンジのカーディガンに、化繊のスカート。
左足を少し引きずりながら、路上に散らばった本を、ひとつひとつ拾い集めている。
その手には、破れかけたビニール袋。
印刷されたロゴがかすかに読めた。「中公文庫 創刊50周年記念」。
焦げた『坂の上の雲』を胸に抱えながら、婦人はぽつりと呟いた。
「これね、うちの夫が……初版本だったの。家が、もう……全部焼けてしまって……」
虚ろな目は、どこも見ていなかった。
野間は声をかけなかった。
代わりに、シャッターを一度だけ切った。
—
すぐ近くの歩道に、30代と思しき男性が座り込んでいた。
額から血が滲み、片手にはスマートフォンを握っている。
画面はひび割れていたが、LINEの通知は止まらず表示されていた。
「……“既読”が、つかないんですよ」
男はつぶやいた。
画面には、「妻」「母」「職場」の名前。
送信済みのメッセージの下で、既読マークだけが、ずっと空白のままだった。
「届いてるのかも、もう……わからなくて」
男は顔を上げなかった。鼻から血が垂れていても、それにすら気づかない。
ただ、通信の届かない世界で、壊れかけの画面を見つめ続けていた。
—
さらに数メートル先。
崩れた「BISTRO S」の前。
ゴミ箱の陰で、若い女性が子どもを抱きかかえていた。
スウェット姿。ボサボサの髪。左手首には保育園の入館バンド。
「……もう、大丈夫だからね。お母さん、ここにいるよ。ちゃんと、いるから……」
声は震えていた。目は、誰かを探していた。
野間と視線が合った。
「……見てないですか? 灰色のリュックを背負った子。園児服のままで……さっきまで、いたんです」
言葉の途中で、声がかすれた。




