第26章 最初の生存者
2027年11月12日 午前4時12分/御茶ノ水駅・南口
自動ドアは、開かなかった。
野間は両手で押し開け、駅ビルのエントランスを抜けた。
構内は暗く、非常灯すら点いていない。券売機も、改札も、完全に沈黙していた。
窓ガラスは割れ、吹き込む風が紙片とチラシを舞い上げる。
駅の内部が、廃墟になっていた。
ホームへ降りる階段は封鎖されており、線路の先が赤黒く焦げていた。
「鉄道も死んだか……」
思わず漏れた独り言が、誰にも届かないまま消えた。
野間は地上へ出た。
御茶ノ水橋の欄干に手をかけ、南西を見やる。
——ない。
そこにあるはずだった都心の輪郭が、溶けていた。
霞ヶ関方面。皇居を中心にした、かつての官庁街。
ビル群は、斜めに裂け、骨のように剥き出しになっていた。炎が吹き出しているが、「燃えている」というよりも、**“燃えたまま、沈黙している”**としか言いようがなかった。
空は、奇妙な曇り方をしていた。
焦げ茶と灰色の層雲が低く垂れこめ、夜明けの光を押し返している。
「……核の雲だな」
喉の奥で呟き、防塵マスクを押さえ直す。
野間は、川沿いの通りを南東へ歩きはじめた。
目指すは、小川町。霞ヶ関から、ほぼ5km圏内。
午前4時20分/靖国通り・小川町交差点
舗道のタイルが盛り上がり、アスファルトには亀裂が走っていた。
ビルの壁面は剥がれ、コンクリ片が路上に散らばっている。
街灯はすべて消え、自販機の液晶も死んでいた。
タクシーの中で、ドライバーがハンドルにもたれかかっている。窓を叩いてみたが、返事はない。
「脳震盪か……それとも」
答えの代わりに、沈黙だけが返ってきた。
靖国通りに、人影はなかった。
——いや、違う。
よく耳を澄ますと、遠くから靴音が聞こえる。
交差点の向こう、ビルの陰に、誰かがいる。
野間は慎重に近づいた。
黒いパーカーの若者が、スマートフォンを掲げている。
「……電波さえ入れば……っ」
その声には、血が混じっていた。
——圏外だ。もう、どこまで行っても。
「大丈夫か」
野間が声をかけると、男はビクッと肩を震わせたが、すぐうなだれて言った。
「銀座に妹がいて……“火の柱”が見えたって……俺、何も……何もできない……」
野間は、黙ってポケットからヨウ素剤のパックを取り出し、渡した。
「これを飲め。少しはマシになる。近くに地下道がある。隠れろ」
男は震えながら薬を受け取り、何度も頭を下げた。
午前4時34分/外神田・万世橋
ここが、5km圏の最東端。
秋葉原の電気街は、焼け跡だった。
ゲーミングモニターの山、アニメの看板、電子広告。
そのすべてが煤け、熱で溶け、歪んでいた。
「EMPじゃない……熱線だな」
ガラスは泡立ち、アクリル板が曲がっている。
自転車は骨だけになり、ATMは焼けた基板を剥き出しにしている。
コンビニの窓は砕け、商品棚は崩れ落ちていた。
だが、略奪はなかった。
誰もいない。それが恐ろしかった。
「……東京が、死んでる」
野間はそう呟いた。
この街は、眠らない都市だった。
深夜でも光と音が満ちていた。
だが今は、**ひとつの息吹もない、都市の“亡骸”**と化していた。
午前4時45分/万世橋交番跡
倒れていた若い警察官を見つけた。
被爆ではない。瓦礫で頭を打ったようだった。意識は朦朧としているが、生きていた。
「意識はあるか? 聞こえるか」
「……私は……警視庁……霞ヶ関が……爆発が……」
「もう喋るな。今のお前の任務は、“生きること”だ」
そう言い、野間はベストに水のパウチを差し込んだ。
防災バッグから、緊急用の火工信号を取り出す。
物理式のボタン。まだ、これだけは死んでいない。
空へ、赤い閃光が打ち上がった。
万世橋の上空に、ひとつの光が咲く。
誰かがそれを見るだろう。
まだ「生きている者がいる」と気づくだろう。
野間はそう呟き、再び鞄を背負い直した。
目的地は、決まっている。
——皇居正門、桜田門。
あの閃光の、真下へ向かう。
そこに、何が起きたのかを、自分の目で記録するために。
たとえ、それが、地獄の底であったとしても。




