第22章 空白の10秒
夜を貫くもの
――2027年11月12日 午前4時03分/東京都千代田区・某雑誌社ビル5階
野間遼介は、靴を履いたままソファーベッドに沈んでいた。
午前3時すぎ、「従軍記者が見た、石垣島の大和防衛戦の詳細について」」の記事を書き終えた直後だった。
台湾戦線の現地ルポはようやく文字となり、彼の脳は思考を絞り出しきった果てに、強制的なシャットダウンに入っていた。
室内は薄暗く、窓のカーテンの隙間から、東京の夜景の残照が微かに滲んでいた。
スマートフォンの電源は切ってある。通知に眠りを妨げられるのが嫌だった。
電波の届く場所では、社会はうるさい。だから眠るときだけは、情報を切る。それが野間のルールだった。
脇の床には開きっぱなしのノートPC。転がったボイスレコーダー。
壁際の棚には台湾で使った防塵マスクとミリタリーポーチ。戦地の名残が、日常の空間に沈殿している。
そのときだった。
耳の奥を、細くて不快な、人工的なサイレン音が突き抜けた。
「……え?」
夢かと思った。過去に聞いた空襲警報や災害訓練の記憶が、混濁した意識のなかで再生されたのだと。
それよりもソファの固さや、首元に擦れるジャケットの襟の感触のほうが現実的だった。
だが数秒後――**“大気が爆ぜるような音”**が、ビル全体を貫いた。
床が鳴った。
地震ではない。建物が軋んだのではない。下から“突き上げられた”のだ。
ガラス戸の軋み、プリンターの転倒音、壁の額が落ち、何かが破裂するような音に混じって、外から鋭い光が差し込んできた。
反射的に野間は跳ね起きた。靴を履いたままだったため、すぐ立てた。
目を開けた瞬間、部屋の奥の壁が白く光っていた。電灯ではない。窓の向こうから射し込む異質な光。
そして数センチ浮いたような感覚のあと、音が遅れて爆発の衝撃が押し寄せた。
「……っ、何だ……?」
右耳が一瞬、聞こえなくなった。
床に倒れたモニターがスパークを上げ、天井のLED照明が「パンッ」と弾けた。
直後に訪れたのは――完全な沈黙だった。
電気が、死んでいた。
野間はようやくスマホの電源を入れた。だが圏外。Wi-Fiも繋がらない。ルーターすら応答しない。
再起動しても、変わらない。
「地震じゃない……空襲か? まさか……核……?」
言葉にならなかった。
10秒前まで「社会」の外にいた人間の脳は、まだ現実に追いついていない。
だが閃光と揺れの中心――霞ヶ関だと、直感した。
野間は窓辺へ駆けた。
御茶ノ水の雑居ビルから南西方向を見下ろすと、濁った光の柱が空へ伸びていた。
けれどその光は、街には差していなかった。
空は白んでいるのに、街路が暗い。
タワービルも、自販機も、コンビニも、すべて沈黙している。
東京という巨大な都市の心臓が、止まっていた。
その瞬間、野間の中で何かが切り替わった。
記者としての身体が、動き始めた。
防塵マスク、録音機、紙ノート、予備バッテリー、鉛シートで保護された端末。
必要なものをすべて防水バッグに詰め込む。
バッテリー残量も確認せず、ミラーレスカメラを鞄に突っ込む。
カーテンをかき分け、ビルを出るルートを視線で追う。
この雑誌社のビルは鉄筋5階建て。エレベーターは使えない。
階段を駆け下りる途中、2階の印刷室でコピー用紙が舞い散り、火災報知器が鳴っていないことに気づいた。
「センサーも……死んでる?」
最悪のシナリオが脳裏をよぎる。EMP――電磁パルス攻撃。
通信も発電も制御系も、電子回路を一斉に沈黙させる“電子の兵器”。
しかもそれが使われるなら、通常弾頭ではない。
靴音が階段に響く。だが、息は切れない。
今はまだ、自分の心臓の鼓動すら意識に上ってこない。
――そして、ビルの玄関ドアを開けた瞬間。
冷たい晩秋の風が顔にぶつかり、野間は理解した。
東京は、攻撃された。
だがまだ、誰も何も知らない。
報道もない。ネットも沈黙している。
今この瞬間、記録者は自分だと――野間は静かに、確信していた。




