第141章 海上自衛官 伊沢章の記憶 (史実)
2011年3月11日 15時42分
黒い津波は、防潮堤を軽々と越えた。その巨大な水塊がタービン建屋になだれ込むと、地下は一瞬にして濁流に呑まれた。鋼鉄の扉が悲鳴を上げ、非常用ディーゼル発電機室は濁水で満たされた。バルブが砕け、圧縮空気が泡となって天井へ向かっていく。
わずか数十秒。非常用発電機は水没し、配電盤は火花を散らして沈黙した。
「全交流電源喪失!」
オペレーターの声が制御室に響き渡る。モニター群は暗転し、残されたのは小さな非常灯と、バッテリーが供給する数本の計器だけだった。その針は震え、数値は異常な上昇を告げていた。
炉心冷却が失われた。燃料棒の周囲の水位は急速に低下し、3月11日深夜には、すでに燃料集合体の先端が露出していた。蒸気の温度は上昇し、燃料被覆管(ジルコニウム合金)が赤熱化して水蒸気と反応、大量の水素ガスを発生させていく。
「水位……下がっている!」
「手動注水ラインを繋げ!」
必死の作業が続いた。だがポンプは動かず、ホースは弾かれた。暗い制御室の中、隊員たちは冷や汗を流しながらマニュアルを手繰る。外部からの電源車搬入も試みられたが、道路は寸断され、接続用のケーブル規格も合わず、時は無情に過ぎていった。
翌3月12日未明。燃料棒は次々に露出し、温度は1,800度を超えた。ジルコニウム被覆管が崩壊し、燃料ペレットが次第に融解していく。どろどろの塊は、炉心下部の支持構造を溶かしながら落下していった。
「炉心損傷」――メルトダウンの始まりだった。
格納容器の圧力は上昇し、バルブを解放しなければ爆発は避けられない。しかし、その先に待つのは「放射性物質を含む蒸気の大気放出」だ。職員たちは板挟みになり、誰もが声を荒げ、判断に揺れた。
結局、ベントは遅れた。圧力は想定を超え、配管を通じて水素が建屋へ漏れ出していく。
3月12日午後3時36分。制御室に轟音が響き渡った。直後、窓の外に白い閃光。
福島第一原発1号機原子炉建屋――吹き飛んだ。
テレビ中継がとらえたその瞬間、世界は息を呑んだ。鉄骨がねじ切れ、コンクリートが粉塵となって空に舞い上がる。高く立ち昇る白煙。それは水蒸気ではなかった。セシウム、ヨウ素、ストロンチウム……目に見えない放射能が、風に乗って広がっていった。
政府は避難指示を拡大した。当初3km、次に10km、さらに20km――最終的に30km圏に及び、住民15万人が一斉に家を離れた。阿武隈山地の麓、避難所となった体育館には人があふれた。老人が毛布を抱えて座り込み、乳児を連れた母親がミルクの配給を待っていた。だが物資は足りず、線量計を持つ職員の数も足りなかった。
「この人は被曝しているのか」「どこまで逃げればいいのか」
情報は錯綜した。誰もが「放射能が来る」という言葉に怯え、隣人を避け、口を閉ざした。バスの車内で泣き叫ぶ子どもの声と、押し殺した大人たちのすすり泣きが重なった。
地震と津波の恐怖の上に、見えない放射能という新たな恐怖が覆いかぶさった。
そこまで鮮明に“史実”を追体験していた伊沢章は、そこでふと記憶が途切れることに気づいた。福島第一の「改変後」の記憶は、現れなかった。震災の被害を軽減できた津波や他の災害とは違い、この事故だけは、救われた未来の映像が存在しないのだ。しかも兄の記憶ではなく、自分自身の客観的記憶として再生されていた。
代わりに、霧の向こうから浮かび上がるのは、別の海岸線。コンクリートの防潮堤、巨大なタービン建屋。――それは、東海第二原子力発電所に似ていた。
だが、映像は断片的だった。轟音。赤い閃光。吹き飛ぶ構造物。その混乱の中で、必死に操作盤を繋ごうとする作業員の影。福島の悲劇を上回る危機。しかし、そこで記憶はまた途切れ、深い闇に沈んでいった。
伊沢章は震える息を吐いた。なぜ福島だけが「救えない定数」として残されたのか。なぜ代わりに東海第二原子力発電所の影が、未来の幻影のように忍び寄るのか。
その答えはまだ分からない。だが一つだけ確かなのは――福島は歴史に刻まれた定数であり、東海第二原子力発電所はこれから訪れるかもしれない変数だということだった。




