第138章 海上自衛艦 松岡航一の兄の記憶
——2011年3月11日、午後2時46分。
宮城県沖、深さ約24km。マグニチュード9.0。
春へと移ろう東北の空は、どこか靄を帯び、鈍色に沈んでいた。名取川に沿う田園地帯のなか、仙台空港の南方2キロに位置する通信中継施設、名取中継所。その静けさは、これから始まる悲劇の序曲だった。
松岡篤志は、防災情報網のバックアップ回線に接続された光トランシーバの調整をしていた。周囲には19インチラックが林立し、そのファンが絶え間なくうなりを上げている。携帯キャリアと行政通信回線を束ねるこの中継所は、名取市から南仙台にかけての通信インフラを担う要衝のひとつだった。
「温度、上がり気味だな……ファン、交換だな」
ラック背面にしゃがみ込み、ケーブルを抜き差ししていた彼の足元から、微かな「違和感」が伝わってきた。それは、地盤の底から来る、ごくわずかな、しかし不穏な兆候だった。
そのときだった。
グゥゥゥ……
低く、地の底から這い上がってくるような音が空気を震わせ、耳に届いた。一瞬、送電系の異常音かと思った。だが、それは間違いなく**“地鳴り”**だった。次の瞬間、世界が波打った。
振動ではない。**“うねり”**だった。
耐震構造の建物全体が、軋みを上げて左右に揺さぶられる。天井の照明がバネのように揺れ、その一本が――落ちた。「っ、でか……!」咄嗟に立ち上がろうとした篤志の背後で、重量200kgを超えるUPS筐体が、ゆっくりと、しかし抗いがたい重力に引かれて傾き始めた。
「あぶな――!」
悲鳴。ラックごと押し倒された同僚の姿が視界の隅に入り、彼は本能的に後退した。揺れは加速度的に増していく。地面が割れるわけではない。だが、**“空間そのものが歪む”**ような、得体の知れない浮遊感に支配される。天井からは配管が外れ、ノイズを伴った警報音が耳をつんざく。「制御ブレーカー、全部落とせ! 漏電火災、避けろ!」緊急停止ボタンを探す指が、激しい揺れで思うように動かない。
「これは、P波じゃない……本震だ。直下型……いや、違う。もっと――」
建物全体が、膝を折るように沈みかけた。篤志は這うように出口へ向かう。あと3メートル。その瞬間、別の機材ラックが倒れ込み、彼の右足首を直撃した。
悲鳴が喉に詰まり、激痛が背筋を駆け上がる。それでも――
「避難! 高台に逃げろ!!」
彼は歯を食いしばり、肩を支点にしてドアを開け、外へ飛び出した。
*
外気は、異常な熱気を孕んでいた。地平線の彼方、東の空が異様なほど“霞んで”いた。太陽が黒ずんで見える。名取市内の低層住宅群の屋根の向こうに、仙台空港の管制塔がかすんで見えた。その滑走路の端に駐機していた旅客機が、既に横倒しになっているのが視認できた。
「まさか、もう……」——津波が来ている。
背後から、異様な“風”が吹き抜けた。空気が、湿っていた。海の匂い。塩の粒子。田園地帯を隔てる防風林の向こうから、黒く泡立つ巨大な塊が、音もなく迫ってくるのが見えた。
それは水ではなかった。
土砂、油、建材、車、瓦礫、すべてを巻き込んだ**“破壊の流体”**。
人々が逃げていた。誰かが叫んでいた。消防車が逆走していた。ガス管が破裂し、火の柱が上がっていた。
篤志は足を引きずりながら、裏手の小さなコンクリート斜面を這い上がった。そのときだった。津波の先端が、真下の街区を一撃で飲み込んだ。住宅が根こそぎ流される。コンテナが回転し、電柱がちぎれ、車ごと一家が呑まれていく。彼の目の前で、空港ターミナルのガラスが割れ、泥水が吹き上がった。人の形をした何かが、水と一緒に流れていくのが見えた。
「……っ」
声が出ない。頭が真っ白になる。無力感。怒り。絶望。自衛隊は――いなかった。当然だった。あまりに突然で、規模が大きすぎた。通信は途絶。道路は寸断。空港は冠水。すべてが、「想定外」だった。
後に篤志の上司は言った。「千年に一度の災害だった。どうしようもなかったんだ……」しかし彼の中では、その言葉は、何かを免責するための呪文にしか思えなかった。
*
その後、篤志の遺体は発見されていない。
——2026年。
弟の松岡航一は、時を超えて現代の戦艦「大和」の艦上海上自衛官としていた。




