第133章 無言館
午前3時12分
東京都文京区・本郷台地地下避難区画(非公開施設)
この場所の存在を知る者は、ごくわずかだった。旧文部科学省の防災庁舎跡地下に隠された、富裕層向けの「私設避難収容施設」。建設名義は某教育財団の「緊急教育資源保管センター」。実態は、“想定された都心崩壊”に備えた閉じたサンクチュアリだった。
収容人数150名。専用の独立電源。酸素供給。水再生処理。通信衛星リンク。表に出る必要のない内部経済。何より、国家より早く、「選別の論理」を実行した空間。
ここに今、福地琴音、27歳——元文科省官僚、財団の実質的運営責任者がいた。
静寂だった。地上では、同じ東京とは思えぬ、火災、略奪、暴動、絶望が渦巻いているというのに。この場所では、スーツ姿の男たちが静かにブリーフィングを受け、白い壁に映し出されたAI統合ダッシュボードを見つめていた。
「現時点で“東京外郭環状道路以南”の区域、ほぼすべてにおいて実効行政機能の喪失を確認」
「荒川放水路以東、葛飾・江戸川・江東区で計7か所の火災。うち3か所が原因不明」
「集団避難所の統合拠点のうち、実稼働しているのは都庁系1か所、防衛省系2か所のみ」
“避難計画”という名の静かな放棄が進行していた。
琴音は静かに息を吸い、背後に立つ老紳士に言った。
「これが、“都市機能の選別”です。私たちは、早すぎると嘲られながらも、それを準備してきました。いま、国家が声を失った夜に、唯一、言葉を発し続けている空間がここです」
老紳士は、政財界で名を馳せた元中央銀行副総裁だった。彼は目を細め、重く言った。
「君たちの“情報シェルター”は、実によく設計されている。だが、外の世界はどうする。君の友人たちは、あの夜の渋谷で、誰にも知られず消えたのではなかったか?」
琴音の指先がわずかに震えた。彼女は大学時代、災害支援系サークルの代表をしていた。「現場に行く官僚になりたい」と、文科省に入省。だが、官僚機構の硬直と政治の保身を目の当たりにし、2年前に辞職。代わりにこの施設の構築と、“選ばれた都市の継続”に賭けた。
「……彼らのような人たちを守るには、“合理的に動く国家の代替”が要る。私はその“予備国家”の設計図として、ここを創ったんです」
老紳士は何も答えなかった。ただ、モニターに映されたSNSのタイムラインに目を落とす。
「#東京脱出」「#環八通れません」「#火災エリア更新」
「#新宿西口崩壊」「#路上出産中」「#もうだめかもしれない」
「#助けて」「#灯りがない」「#誰か見てる?」
琴音はつぶやくように言った。
「都市の声が、文字になって消えていく。誰にも拾われず、ただ画面の外に沈む……それが、“沈黙の死”です。国家がそれを認識しないなら、私たちが記録し、残すしかない」
彼女は傍らのタブレットを起動し、“記録データベース・MIMIR”にアクセスする。そこには、東京の24時間を生きた市民10万件以上の生ログが保存されていた。
――声を奪われた都市の、声なき叫び。
「“無言館”です。私たちが残すのは、避難施設ではなく、“生きた記憶の箱”です。未来に向けて、この都市がいかに沈んだかを伝えるために」
外ではまた、どこかのビルが崩れる音が聞こえた。だがここでは、都市の終焉がデータとして静かにアーカイブされていくだけだった。
【時刻:午前4時00分】
東京は、もうすぐ夜明けを迎える。だがその光が、どこまで届くのかは、誰にも分からなかった。




