第127章 沈黙の指令室
【午後10時40分 警視庁本部庁舎 地下1階通信指令本部】
“ピー……ピー……”
複数の無線回線から、音のない砂嵐のようなノイズが重なっていた。
通信断エリア:荒川区、台東区、江戸川区、葛飾区、足立区、墨田区、北区、江東区。
被害未確認地域:新宿区、品川区、大田区、港区、千代田区。
確認済避難誘導済地域:なし。
ホワイトボードの書き込みは、更新のたびに増え続け、意味を成さなくなっていた。西條はヘッドセットを外し、深く額に手を当てた。冷房は止まり、室内の空気は汗のにおいと機器の熱で重く淀んでいる。
「非常通信回線、また落ちました」
「警視総監との音声回線も、断です」
「NHKも、総務省も、応答なし。……上層の官邸回線は?」
「暗号回線の再接続、不能です。復旧予定——ありません」
【午後10時43分 非常対応会議】
通信指令室の隣室で、非常時小会議が非公式に開かれていた。
――そこに、もう「上層部の命令」は存在しなかった。
出席者は、警備部、地域部、公安部の中堅クラスの職員と、残された数名の警察庁職員。
ひとりが言った。
「もう命令は、上から降ってこない。だが、われわれは、命令がなくとも動かねばならない」
「何を? 今、どこに警察機能がある?」
「“人”だ。“交通整理”“避難誘導”“混乱の抑止”。それだけだ。……だが、その“それだけ”が、いま必要なんだよ」
「責任は誰がとる? 上はすでに地下指揮所へ退避してる。連絡もつかない。“命令”がない」
「ならば、“責任”は、我々が負うしかない」
静寂。
西條はその沈黙の中、かすかに自分の心臓の鼓動だけを感じていた。
【午後10時49分 自律判断】
警視庁職員向けに、**“命令なき自律出動”**が非公式に告知された。携帯型のデジタル無線端末に、短いメッセージが入る。
「管轄区域の状況に応じ、個人判断により活動せよ。出動・退避の自由を認める。警視庁通信指令本部より」
“自由を認める”。
――それは、実質的な「組織解体」に等しかった。
【午後10時52分 警察官たちの決断】
若手隊員の一人が、制服の袖をまくりながら言った。
「西條さん、俺、行ってきます。家族、新大久保なんで」
「……わかった。無理はするな。途中、一般市民の列に混ざれ。制服は脱いでいけ」
「……ありがとうございます」
そう言って、隊員は敬礼の姿勢をとろうとしたが、西條はそれを静かに制した。
「いい。敬礼は、勝ったときにするもんだ。まだ、勝ってない」
【午後11時00分 指令室、完全沈黙】
西條は、薄暗くなった指令室にひとり残った。通話が不通になった端末が、まるで遺体のように静かに光っていた。彼は記録ノートに最後のメモを残す。
午後11時00分現在
通信指令本部より、各署への発令なし。命令権限喪失。
以後、個々の判断に委ねる。――生存者の行動を信ずる。
そして、マイクを取り、最後の放送を行う。
「こちら警視庁通信指令本部。以後の行動は、各位の責任において実施せよ。全員の無事を祈る――以上」
放送が終わった瞬間、都庁の明かりが――すっと、ひとつ、またひとつと消えていった。
【午後11時03分 静寂】
窓の外は、赤黒い夜の光が揺れていた。その中で、なお「秩序」を守ろうとする者たちが、散り散りに動き出していた。




