第104章 「標的:東京」
北朝鮮・特別脱出機Il-76MD(中国国境南部から出発、黄海上空)
貨物機の主翼が、薄暗い雲を裂いて飛んでいた。副燃料タンクを装備した旧式のイリューシン輸送機が、静かに高度1万メートルを維持している。搭乗しているのは、国家主席、参謀総長、護衛官僚ら数名のみ。目的地はロシア極東、さらにそこから第三国への亡命経路が設定されていた。だが、機内は静まり返っていた。
「閣下」
隣席の参謀総長が、声を低くして尋ねた。 「失礼ながら、確認させていただきたい。……なぜ、“東京”なのですか。なぜすべての弾道核を、あの都市に集中させる必要があったのでしょうか」
国家主席は、眼鏡を外し、濡れたような指先でゆっくりとレンズを拭いた。何度か呼吸を整えてから、応えた。
「政治的判断だ。……いや、“戦略的帰結”と言ったほうがいいかもしれない」 「戦略的に見れば、分散攻撃の方が合理的です。“被害最小化=交渉最大化”の法則に反します」 「通常なら、そうだろう。しかし、我々の交渉カードは、すでに焼け焦げている」
主席は視線を天井の配線に向けた。 「――このままいけば、我々は、“どこにも攻撃を行わなかった国家”として歴史に記録される。全面的な壊滅を受けたにもかかわらず、誰も咎めなかった国として。残るのは、“従属”“失政”“無力”の語ばかりだ」
「……ですから、見せしめを?」 「違う」
主席の声は、乾いていたが確信に満ちていた。
「東京という都市は、今や“非公式なアメリカの拠点”だ。米軍の統合通信ノードはすでに市ヶ谷と横田の中継局に移されている。財務制裁ルートの起点はすべて丸の内を経由し、対北防衛の“実質的な指揮権”は、永田町から防衛省へと統合されている。
そして、我が国の体制を最も強く揺さぶった心理戦は、六本木の報道機構を通じて仕掛けられた。……我々にとって、東京は“戦略中枢”と見なすべき対象になっていたのだ」
「軍事基地ではありません」
「だからこそ狙う」
主席は、眼鏡をかけ直すと、淡々と続けた。
「――軍事施設ではなく、戦略脳を焼き払う。“戦後秩序”の象徴を消す。そして、東京という名前そのものに、“火の記憶”を埋め込むんだ。そうすることで、東アジア全体の“力の座標軸”を一時的にでも喪失させる」
「……つまり、抑止力ではなく、“記憶”としての一撃」
「そうだ」
主席はわずかに微笑み、静かに言った。
「日本はこの攻撃で“世界最初の戦後国家”ではなくなる。
代わりに、“再度焼かれた首都を持つ国”になる。その“象徴破壊”こそが、我々がこの壊滅の中で唯一残せる“政治行動”だ。……我々は敗北する。しかし、記憶の中では、抵抗を遂行した国家として残る」
参謀総長は、端末に目を落とした。
【最終攻撃シーケンス(抜粋)】
・KN-28B型中距離弾道弾(1Mt級核弾頭搭載)×8基
・標的座標
1)永田町(政治中枢)
2)市ヶ谷(防衛省・統幕)
3)丸の内(財務・通信)
4)横田(米軍通信)
5)六本木(情報戦中枢)
6)新宿~練馬(地下指揮施設)
7)東京駅(交通麻痺)
8)立川(陸自予備司令部)
参謀総長は、ゆっくりと問いかけた。 「撃たせるおつもりですか?」
主席はしばらく答えず、窓の外、星一つない空を見つめた。
「……最終判断は、残った将軍たちに決定させる形をとってはいるが。」
「すでに発射は止められないと」
「あのボタンが“ただの飾り”で終わるよりも、一度だけ、意味のある場所に向けて使われることを望んでいる」
その声は、静かだったが、確かに覚悟を帯びていた。 Il-76は雲の上を滑るように進んでいた。そして東京では、まだ灯りがともっていた。