第101章 後悔
首相官邸 地下第2危機管理室
壁の大型スクリーンには、赤外線衛星画像が静かに更新を繰り返していた。北緯42度線上、鴨緑江沿いの一帯。薄明の雲をかすめて滑る一機の大型ジェットが、北朝鮮領内から中朝国境を越えようとしている。
「確認された。機種はY-12。推定6名搭乗。うち1名は、国家主席キム・ジョンギュ本人――」
国家安全保障局の情報官が読み上げる声に、官邸地下の空気が凍りついた。
「経由地は不明ですが、どうやらロシアではない可能性。中国国境上空で、衛星経路の記録が分断されました」
首相は黙って頷いた。机の端にはコーヒーカップがあったが、すでに冷めて久しい。
「ロシアは、受け入れを否定しているのか?」
「公式には沈黙。だが、モスクワ経由で“核使用の責任回避のために政治的中立を維持する”という文言が届いています」
「つまり、核ボタンを押させたくないから、本人だけは逃がす……」
防衛相が低く呟いた。
「モスクワの情報は信用できない。亡命受け入れの打診は絶対しているはず」
「まあ、今はそんなことはどうでも良い」
「主席の国外逃亡が確認された今、北朝鮮国内の発射統制系統はどうなっている?」
統合幕僚監部の対北分析官が応じた。
「情報筋からの解析によれば、副主席が発射指令室を“仮政府”の拠点として掌握中と見られます。現在、米第160特殊作戦航空連隊が空域支配下にある東部山岳地帯の地下施設を中心に、接近を試みておりますが……」
「“特定不能”というのが現状だな」
「はい。信号抑制が強く、基地群のうちいずれが指令核かは確定に至っておりません」
「無論、時間はない」
「はい。過去の訓練データと構造上の推定から、“発射準備完了”から“全弾発射”までの最大リードタイムは21時間――最短で12時間。現時点で、最初のステップである“点検フェーズ”には確実に入っています」
参謀たちが一斉に画面を見た。そこには、ミサイルサイロが多数点在する北朝鮮中部の平野部と山岳部が、熱源の微妙な変化とともに表示されていた。
「ターゲットは」
「標的は確定しています。“日本以外ではない”と米NSA、DIAともに断定しました」
「韓国と日本の分散発射ではなく、全弾日本集中か?」
「その可能性が濃厚です。」
「着弾予想地点は」
「米軍基地、自衛隊基地」
「そして首都東京もありえるかと」
首相は黙ったまま、眼鏡を外して目を閉じた。
その時、通信端末が点滅する。
「ホワイトハウス直通です。ブレナン大統領補佐官、機密回線で――」
スピーカーフォンに切り替えられたその声は、静かに言った。
「亡命容認。米大統領は、中国及びロシアが主席を“非戦闘員”として受け入れることを外交的には容認すると決定。」
「だが、指令塔が現地に残ったままでは意味がない。」
「我々米軍はは継続して、C4ISR資源とデルタ部隊を用い、拠点の特定と同時攻撃を準備している」
「日本への照準が変わることは?」
「ない。先ほど、NSA経由で“標的群変更なし”の暗号通信が傍受されたとのこと。完全自動化に近い、発射手順は進行中であり、放置すれば遅くとも24時間、早ければ12時間以内に全弾が日本へ撃ち込まれる。」
総理の脳裏を、数時間前に自身が下した決断がよぎる。
「警戒レベルを一旦、一段階上げる。国民のパニックを招いてはならない」
それは、ごく当たり前の政治判断だったはずだ。しかし、今、その判断が鉛のように重くのしかかる。
通常のアラートレベルから「即応態勢」への移行には、最低でも12時間の準備時間が必要となる。
この国の迎撃システムは、常に最高レベルで稼働しているわけではない。メンテナンス、人員配置、そして何より、国民生活との兼ね合いを考慮すれば、あの時点の段階的な引き下げは不可避だった。
しかし、その不可避なプロセスが、時間という猶予の中では致命的な空白を生み出す。
もし、アラートレベルを引き下げずにいたなら。
もし、あの時、国民の動揺を恐れずに、緊急事態を宣言していたなら。
後悔と恐怖が、彼の精神を蝕む。
机に置かれた冷たいカップに、自らの手が震えているのを見た。