第100章 第1章:赤い指針 ARMED
滑走路は、静寂のなかにあった。
まるで世界そのものが、息を潜めて、指導者の「次の一歩」を待っているかのようだ。
凍てついたタキシングランプが、滑走路の端から端までを貫く。
その無音の光は、ただの誘導灯ではない。それは、亡命か、滅亡かを選び取る「赤い指針」となる運命のレールだった。
地中数十メートルの特殊遮蔽トンネルを、改装されたリムジンが走っていた。電磁遮蔽とミサイルの直撃にも耐える複合装甲。だが、今、その頑強な車内で最も脆いのは、国家主席自身の精神だった。
助手席では参謀総長が、無線の音量を最小に絞りながら、極秘資料をひとつずつ読み上げていく。
「“赤星”第一系統、手動起動完了。暗号送信ログ確認済み。二次系統は自動切替にてスタンバイ中。現時点で、発射シーケンスはTマイナス24時間十二分――」
それを聞いても、主席は応えない。窓の外に映る自分の影を、ただ見つめていた。
その影は、疲れていた。かつて広場で群衆に拳を掲げ、勝利の演説を打った時のようなカリスマも、硬い決意も、今のその姿にはなかった。
「……そのまま進め。私が乗った後も、針は止めるな」
その声は乾いていた。
だが、その一言で、すべてが動き始める。
タキシングランプの端、鋼鉄のスライディングシャッターが音もなく開いた。地下壕から地表へ。国家を背負ってきた男が、いま、文字通り「地上」に戻ろうとしていた。
車内に、再び無線が鳴る。
参謀総長が目線で許可を求めると、主席は頷いた。
「……モスクワより再確認。『家族単位での亡命容認、ただし政治的発言は一切禁止』。北京側はまだ公式声明は出していないが、上海ルート経由の中立地帯受け入れに“含みあり”とのこと」
「――家族か」
そう呟いて、主席はポケットから古びた機械式腕時計を取り出した。十六歳の誕生日。息子が贈ってくれた、安物の国産機械式。今、その針は止まったまま。ガラス面には無数の小傷があった。
彼はその文字盤を親指で優しく撫でた。
「……民族は、死ぬ。だが、名は残る」
参謀総長は答えない。彼もまた分かっていた。この亡命は国家を救うためではない。核は“国家の墓碑銘”であり、亡命は“指導者として存在したという記録”を残すための“語り部”への逃避行だ。
リムジンが地上に出た。
広大な滑走路の奥に、ロシア製のIl-76が待機している。垂直尾翼の国籍識別マークは消され、貨物機の外装は白く偽装されていた。
後部ランプにかかるタラップだけが、夜空へと続く小さな道のようだった。
それを見た瞬間、主席は呟いた。
「……ここから先は、私個人の旅だ」
参謀総長が、最後の問いを投げかける。
「――閣下、本当に良いのですか?このまま発射させ、国を捨てるとなれば……後世の歴史は“裏切り者”と刻むかもしれません」
主席は、無言で笑った。音のない、乾いた笑いだった。
「歴史は勝者が書く。だが今回、勝者すらいない。……ならば、私の記録が、“ただ在った”ことを証明するだろう」
その言葉を最後に、主席は車外へ降りた。
寒風が頬を切るようだった。彼はそれを気にせず、一直線にタラップへと歩を進める。視線は一切ぶれない。敬礼する兵士にも目を向けず、タラップを上り――振り返ることもなく、輸送機の機体へと姿を消した。
その瞬間、地中深くの司令部では、「ARMED」の赤ランプがすべて点灯に変わった。
次に点灯するのは、「COUNTDOWN」である。
そして その数は…?
ターゲットは…?




