第87章 揺れる日常 防衛省職員家庭(所沢市/防衛医大近郊)
午後11時すぎ。所沢郊外の一軒家。居間のテレビでは、台湾東岸での「閃光」について専門家が言葉を選びながら説明していた。
「……核である可能性は否定できませんが、現時点で政府は公式な確認を避けており……」
ソファに横たわる小学生の息子・和真が、目をこすりながら言った。「……さっき、爆発してた……?」
母・志保はそっと毛布をかけながら、静かに答える。「……うん。遠い国のこと。でも、ちょっと心配よね……」
その時、玄関のドアが開いた。軍用の迷彩バッグとともに、夫・誠一が入ってきた。陸上自衛隊医官、1等陸佐。目の下には疲れがにじんでいる。
「ただいま」
「遅かったね……」
志保が立ち上がると、誠一はコートを脱ぎながら、無言で頷いた。
「命令が来たの?」
「……今夜、部隊の選抜。明朝には航空機移動の可能性がある。まだ最終ではないが……」
志保の目が大きく見開かれる。「行き先は……台湾?」
「恐らく、与那国か宮古。前線ではないが、傷病兵の初期後送地点として機能するはずだ」
和真が目を覚まし、起き上がる。「パパ……おしごと?」
誠一は微笑みながら、しゃがんで息子の頭を撫でる。「ああ、お仕事。少しだけ遠くに行ってくる。でも、ちゃんと帰ってくるよ」
和真はしばらく黙っていたが、やがて小さくつぶやく。「……テレビの人、こわいこと言ってた」
志保が言葉を挟む前に、誠一は静かに息子の両肩に手を置いた。「こわいときは、ママのとなりにいなさい。いいね?」
「うん……」
誠一が立ち上がり、志保に目を向ける。「出発前に、バックアップの医療データを送る。ノートPCの場所は書斎の左棚に。緊急連絡網は、今夜中にSMSで来るはずだ。……万一のときは、防医大に連絡してくれ」
志保は、唇を噛んでうなずいた。
「……ねぇ、誠一さん」
「なんだ?」
「これ、本当に始まっちゃったのかな。……戦争って」
誠一は一拍置いてから、低く静かに答える。「始まってる。けれど、それを誰も**“戦争”**と呼びたがらない。それが、いちばん厄介だ」
沈黙が降りた。冷蔵庫の小さなモーター音だけが聞こえていた。そして彼は、もう一度息子の寝顔を見てから、自室へ向かった。
翌朝、まだ空が白みはじめる前に、彼の姿は玄関から消えていた。