第86章 揺れる日常 単身高齢者(札幌)
ストーブの火が、赤く小さく瞬いている。古い木造の平屋。壁には古びた書の額と、白黒写真。80代の女性、木内ふみは、ちゃぶ台に置かれた急須に湯を差しながら、テレビの音に耳を澄ませていた。
「……先ほど、台湾東岸にて強い閃光が観測され……」
NHKの報道特番。画面右下には「避難情報にご注意ください」とスクロールが流れている。
ふみは、小さくため息をついた。手元の押し入れから、風呂敷に包んだ何かを取り出す。中から現れたのは、かつての防空頭巾。薄紫の布地に、綿がところどころ飛び出している。70年以上前、女学生だった頃、空襲警報のたびにかぶったそれを、座布団の上にそっと置いた。
「……また、始まるのかねぇ……」
誰に語るでもなく、声が漏れた。あの時、機銃掃射の音が窓ガラスを震わせた。母が叫び、弟が泣いた。丘の裏の防空壕まで走った記憶が、曇った窓越しの雪と重なる。
ピンポン。
玄関のチャイムが鳴る。
「あら……?」
ゆっくりと立ち上がり、玄関を開けると、隣家の住人・30代の主婦が立っていた。若い子どもを連れ、焦りの表情を浮かべている。
「木内さん……今のニュース、見ました?台湾……すごいことになってますよ。もし避難指示とか出たら、どうします?」
ふみは小さく頷きながら言った。「避難ねえ……歩いて行ける場所があれば、いいけど……。足、悪いしね……雪道は危ない」
若い母親は逡巡し、言葉を選ぶように続けた。「もし……もしもの時、うちに来てください。車で出るとき、一緒に」
ふみは、にこりと笑った。「ありがとうね。でも、私はここでいいよ。ここで、じっとしとるのが一番。逃げるより、落ち着いている方が……怖くないんだよ」
若い母親は言葉を詰まらせ、頭を下げて帰っていった。
その後、ふみは座布団の上に座り直し、防空頭巾を膝にのせて、テレビの音を少し上げた。やがて、画面には「全国の一部施設に臨時避難所設置を検討」と表示され、官房長官の記者会見が始まる。
ふみの目は、どこか遠くを見ていた。凍ったガラス窓の向こうに、過ぎ去った昭和の記憶が、音もなく浮かんでいた。




