第71章 南條忠義の記憶の中で「追体験」
(これは夢ではない。記憶だ。…そして、それは私の兄の記憶だ)
1959年・相模原/名古屋
耳に残るのは、4枚ペラの重く、しかし滑らかな風切り音だった。南條忠義は、その音がただの騒音ではなく、“何かが飛び立とうとしている音”であることを、兄の記憶を通じて直感していた。
──昭和34年、1959年。彼の兄は、この日、名古屋・小牧飛行場にいた。
目の前に停まっているのは、一機の胴体が白とグレーに塗り分けられた中型プロペラ機。そのノーズには、青いロゴでこう書かれていた。「YS-11 改試作1号機」。
「これは、ただの旅客機じゃないですよ」技術広報官が笑って言った。「“後れを取った日本の再出発”っていうのは新聞向けの話です。実態は違う。これは“滑走する迎撃”です」
「迎撃?」兄は眉をひそめた。「もちろん、今は民間機として出してますが、構造と燃料系は最初から軍用派生前提です。電子機器搭載型、長距離哨戒型、無人試験母機……。既に米海軍とも技術交換が始まってます」
南條は兄の視界を通して、格納庫に保管されたYS-11電子戦訓練機仕様機(仮)の模型図を見る。パイロン下部にはポッド装着用の架台、主翼には外装燃料タンクが追加されていた。「これがあれば、電子機器試験も、遠隔迎撃機誘導も、何でもできます」説明員は誇らしげに言った。
歴史の変容
史実では、YS-11は1962年に初飛行したターボプロップ民間機として知られている。しかしこの世界では、“航空機技術封印”という戦後の制限がそもそも存在しなかった。よって、YS-11は単なる旅客機にとどまらず、早期の電子戦母機/対潜哨戒機の基礎技術プラットフォームとして活用されていたのだ。
さらに兄は、相模原に戻ったのち、旧陸軍の流れを汲むロケット研究部門を訪ねる。そこにはYS-11の胴体構造を応用した高高度観測用無人滑空母機の設計図が掲げられていた。「これ、もう“有人の次”を考えてるんですか?」兄の質問に、技術者は頷く。「弾道弾だけじゃ時代遅れになります。大気圏ギリギリを滑空して目標に突入する“制御付き滑空体”の母機を、今から準備しておくんです」
南條は、記憶の中で確信する。この世界における日本の航空機産業は、敗戦後の空白を持たなかった。むしろ、制限されなかったことで“軍用からではなく、民生からの発展”という安全な進化を辿った。結果、YS-11はただの旅客機ではなく、「空に残された技術の意志」となった。




