第51章 大和乗員 瀬川鳴海の兄の記憶
私の兄、瀬川 裕也は、1950年の朝鮮戦争特需の時代、横浜のドックで働いていた。父は戦艦大和の乗員として、遠い海に散った。だから兄は、技術が人の命を救うことを証明するため、懸命に働いていた。
史実では、朝鮮戦争は日本に空前の好景気をもたらした。米軍の物資を輸送する車両や船舶の修理、補給基地の設営。それらは日本の復興を加速させた。しかし、兄の記憶の中の特需は、どこか奇妙な様相を呈していた。
「新しい溶接機材だ。なんだ、この精度は」
兄は、米軍が持ち込んだ新型の溶接機材に驚嘆した。それは、従来の溶接技術とは比較にならないほど、精密で堅牢な継ぎ目を生み出した。その機材を使って修理されたのは、錆びついた戦時中のジープではなく、アルミ合金製のM113装甲兵員輸送車だった。
「これからは、戦車の修理が主になるぞ。M48パットンの砲塔は、鋳造だからな。溶接痕が目立たないように仕上げるのが腕の見せ所だ」
同僚の職人がそう言って笑った。本来、1950年の朝鮮戦争で修理するのは、M4シャーマンやM24チャフィーのはずだ。しかし、兄の記憶では、日本のドックに運び込まれるのは、未来の戦争でしか見ることのないはずの兵器ばかりだった。
最も違和感を覚えたのは、M16アサルトライフルやM60機関銃の部品が、大量に持ち込まれたことだ。それらを修理するために、横浜には米軍が最新鋭の工作機械を持ち込んだ。それは、単なる修理工場ではなく、まるで未来の兵器を生産する実験場のような光景だった。
「聞いたか、ソウルでは空からヘリが火を吐いて、敵を焼き払ったそうだ」
「ヘリって、コブラか? まさか。空飛ぶ棺桶だと思ってたんだが」
職人たちの間で交わされる会話は、現実離れしていた。彼らは、ラジオで伝えられる戦争のニュースと、目の前にある未来の兵器の修理という矛盾した現実の間で、戸惑いながらもその仕事をこなしていた。
兄の記憶の中の朝鮮戦争は、日本の復興を加速させるだけでなく、未来の技術を日本にもたらした。それは、高度経済成長を単なる経済活動ではなく、「未来からの技術供与」によって成し遂げられたかのような、不思議な感覚を伴っていた。
兄は、その光景を後輩たちに語ることもなく、ただ黙って作業を続けた。そして彼は知っていた。この特需は、単なる好景気ではない。それは、歴史の歯車が、本来進むべき道から外れて、未来へと加速していく前触れなのだと。
兄の記憶の断片は、私にそう語りかけている。




