第41章 北の決断
DAY11 午前1時56分(KST)
北朝鮮地下国家主席司令部
換気ダクトの低い唸りだけが、地の底に押し込められた空気を震わせていた。薄緑色の蛍光灯が一本おきにちらつき、壁の結露が鋼板の縁を伝って滴り落ちている。司令卓の上には日本列島の衛星写真。赤と青のグリースペンで引かれた線が、乾きかけの艶を見せていた。横田、嘉手納、三沢、呉──赤い丸が、そこに描かれている。
国家主席は椅子の背にもたれたまま、写真立てだけを地図の上で滑らせた。硝煙の匂いではない。古い紙と機械油の匂いだ。彼の右手には、息子が十六の誕生日にねだって腕に巻いていた安い機械式の腕時計。そのガラスには、星座のように無数の傷が散っている。
「北京は?」
「ホットラインは応答なし。国務院からは『地域安定を最優先、軍事介入の意図なし』という定型文のみ。瀋陽軍区の機動は国境展開に留まり、越境は確認されていません」
「モスクワは?」
「安保理で対北『全面制裁』に拒否権を行使する意向です。直接の援護はないかと」
世界は彼を止めもせず、助けもしない。
参謀総長が卓上のファイルを開く。カバーには油筆で「現用戦略軍事状況・更新3」と走り書きされていた。
「十分だ」
彼の言葉は遮られた。声に熱はない。熱はもう、どこにも残っていない。
「閣下。最終的な選択肢は、まだあります。北京は『民族的権利を尊重』という長期的な枠組みを提案しています」
「選択肢?」
主席は笑った。笑いは音にならず、喉の奥で粉が飛び散る。彼は机の上の写真立てに視線を落とした。校庭の桜の下、白いシャツに腕を組む息子の姿。妻が微笑み、その目尻には小さな皺が寄っている。写真のガラスにも星座のような傷が走り、笑顔に冷たい光を刺している。彼は左手でそっと写真を伏せた。
「これは政治ではない。これは取引でも外交でもない。──これは、遺書だ」
「閣下。首都は落ちました。しかし、国はまだ…」
「彼らに」
暗号将校は端末のカバーを開け、二重の鍵穴に銀色のキーを差し込む。反対側には参謀が鍵を差し込み、二人で目を合わせた。主席は手を伸ばし、机上の赤いスイッチカバーをそっと押し上げた。その指先が空気に触れるまでのわずかな瞬間、彼は何も見ていなかった。
「対象の最終確認」
「横須賀。嘉手納。三沢。──呉 そして東京」
彼は一呼吸を置き、写真立ての裏に吸い込まれた議論を無理に引き剥がす。作戦士官は顔色を深く、しかし音声は訓練のように平坦だった。
「閣下。歴史は──」
「歴史は勝者が書く、と言ったのは誰だ」
彼は息を吐いた。キーが回された。カチリ、と乾いた二度目の音。赤いランプが琥珀色に変わり、コンソールの表示が「SAFE」から「ARM」へ転じる。地下の奥深く、厚いコンクリートのさらに底で、液体が配管を微かに走る振動が床を伝った。
主席はペンを取り、用紙にサインをした。「国家報復コマンド第一号」。
「赤星、発動」
スピーカーが、無機質な女性の声で復唱する。通信メンバーが各線を切り替え、暗号列を押し出していく。
「閣下」
参謀総長の声はかすれていた。
「我々は、存在した」
彼は答えた。過去形だ。存在していた、という証拠を、敵の心臓に焼き付ける。
耳の奥で、娘のピアノがふっと鳴った気がした。曲名を思い出そうとする。そろそろ指が叩く不協和音の「きらきら星」が、地下の空気に混ざってすぐに消えた。
「最終確認。権限付与、指揮継承の維持は?」
「維持良好。一次系統損壊時は二次系統へ自動移行。敵のジャミングは許容範囲内」
「了解」
彼は立ち上がった。足元が少し揺れたが、揺れているのは床ではなく彼自身だと理解する。
「──目撃者は要らない。記録を残せ」
記録官は黒い背表紙の冊子を開いた。「開始時刻、午前二時〇三分五十秒。発令者、国家主席。認証者、参謀総長」。
彼はコンソールの列を一つずつ見て回り、最後に扉の方へ向かった。分厚い鋼鉄。地表から百二十メートルの土とコンクリート。その向こうに、凍りついた空と、東へ向かう黒い海。
「赤星、発射準備を命じる。24時間以内に完了せよ」
コンソールのランプが次々に色を変えた。誰もが息を吸い、目を閉じ、そして頷いた。彼はただ、手の中の腕時計の針を親指でなぞった。冷たいガラスの下で、針は動かない。世界を動かす針だけが、発射準備のカウントダウンを進めていた。