第35章 仁川上陸(祖父の記憶)トーマス・「ホーク」・アンダーソン
これは夢ではない。記憶だ。……そして、それは、私の祖父の記憶だ。
F/A-18Eスーパーホーネットのパイロット、トーマス・「ホーク」・アンダーソン。彼の脳裏に蘇るのは、70年前、祖父が歩いた戦場の光景だった。だが、その記憶は、ただの映像ではない。背景にある情報のすべてを、彼は知っていた。
(この作戦は、司令官マッカーサーが立案したものだ。誰もが反対した――狂気の沙汰だと。仁川の干潟、狭い水路、そして北朝鮮軍の要塞化された防衛陣地。成功確率は五千分の一だと言われた。だが、彼は聞かなかった……)
トーマスは、祖父の記憶を通して、その作戦がどれほど無謀で、しかし大胆なものだったかを骨の髄まで理解した。この作戦が成功すれば、北朝鮮軍の補給線を断ち、ソウルを奪還できる。だが、失敗すれば、米軍の精鋭部隊がこの海で全滅する。それは、日本の占領責任者であるマッカーサーが、自らのキャリアのすべてを賭けたギャンブルだった。
夜明け前の甲板に、重い空気が張り詰めていた。米第1海兵師団の兵士たちが整然と立ち並び、海風と憂鬱の匂いを吸い込んでいた。M1ガーランドの冷たい金属、背に負った弾薬帯の重み。トーマスは、祖父の感覚を追体験する。その息遣い、皮膚に感じる風、そして何よりも、胸を締め付けるほどの恐怖と覚悟。
「――立て! 移乗準備!」
甲板上に号令が響く。兵士たちは隊列を組み、荒れる波間に揺れる上陸用舟艇(LSTから降ろされたLVT、LCVP)へと向かう。はしごを降りるたび、濡れた鉄が滑った。
午前4時50分
LCVP上陸用舟艇
舟艇は次々に海へ降ろされ、灰色の水面に並んでいく。
「これが仁川か……」
誰かが呟いた。外では、艦砲射撃の準備が始まっている。戦艦「ミズーリ」、巡洋艦「ロチェスター」などが、予定された射撃座標に向けて砲塔を回転させる。
午前6時30分
仁川沖・艦砲射撃開始
16インチ砲弾が空気を切り裂き、火柱が陸上の要塞化陣地を吹き飛ばす。地平線の向こうからは黒煙が立ち昇り、仁川市街が炎に包まれていく。
舟艇の兵士たちは、ランプの裏で砲撃の振動を感じながら、互いを見つめ合った。それは恐怖であり、同時に「今がその時だ」という確信でもあった。
午前7時
仁川上陸開始
「前へ! 前進!」
LCVPの操縦士が叫ぶ。エンジンが轟音を上げ、舟艇は波をかき分けて進んでいく。眼前には干潟と防御陣地が迫り、敵の砲火が海面に向けられ始めた。
「衝撃に備えろ!」
次の瞬間、船底が泥に突き刺さり、船体が急停止する。ランプが轟音と共に降り、灰色の朝の光と銃弾の閃光がなだれ込んだ。
M1ガーランドを握りしめ、銃声と爆炎の中を突き進む。
(――祖父は、その先頭にいたんだ)




