第4章 沈黙の皇座
侍従武官・小田切大佐(元近衛師団) ―
昭和21年4月15日 ― 東京・青山御所仮邸
その朝、侍従武官小田切は、淡い霧の中深く一礼した。
「拝下……いえ、今は『元陛下』とお呼びすべきでしょうか…」
「よい。もう私は、国家象徴でも、主権者でもない。ただの『昭和の後継』である」
優しく微笑んだ裕仁は、朝食の紅茶を静かに口に運び、窓の外に目をやった。
昭和22年1月10日 ― タイ・バンコク
非公式の、極秘訪問。
裕仁は、タイ国王ラーマ8世の弟・アナンダと密かに会談した。会場は寺院の一室。二人の間に通訳は立てられず、仏教と王権、植民地主義と自律の未来について淡々と語られた。
帰国後、裕仁は1枚のメモだけを小田切に手渡す。
「東南アジアに必要なのは、『力を持つが使わない国』の存在だ。日本は、その役割を演じるよ」
昭和23年7月2日 ― スイス・ジュネーブ
アジア、ヨーロッパ、米ソの外交官が集う中で、日本から全くの異分子として、「非公式代表」が現れた。元・天皇、裕仁である。米ソ代表はその登場に狼狽し、席を外した。
「彼は、戦争を起こした『終身責任者』』ではなく、歴史と対話しているのだ」
裕仁はただ一言だけ、ドイツ語で話した。
「武力を保有する者こそ、戦場を生み出してはならない。」
以後、『昭和の元皇帝』は、各国の間で非公式な仲介役として、米中ソの対立を水面下で調整するルートを形成していく。
昭和24年3月5日 ― 東京・駒場野(帝国大学構内)
この日の駐日米大使代理・W.パーキンスとの非公開討論の主題は、「日本による独自核保有を前提とした、冷戦バランスの制御」であった。
「米国は、レーガン失踪の件を“技術漏洩”とは見ていない。」
パーキンスの言葉に、裕仁は静かに頷いた。
「だからこそ、日本は、戦う存在ではない。『戦いの記録』としてある。それこそが、我々の未来への『容認』ではありませんか?」
パーキンスは、それを「歴史的赦免」だと評価した。
昭和24年12月31日 ― 宮中(冬の非公式茶会)
雪の積もる夜。裕仁は、密かに政府、軍、学者の中から10名を集めて茶を点てた。そこに集った者たちは、のちに「昭和静謀会」と呼ばれ、日本の冷戦外交と核抑止構造の「精神的中枢」を担ってゆく。
最後に裕仁は、こう語った。
「我が国は、敗北した王制国家である。だが、敗北の上に築いた技術と対話は、未来の王道となるかもしれない。我々は抜き身の剣を鞘に収めて、黙って“視られる存在”となる。世界が振り返ったとき、そこに“動けぬ戦争責任の像”として、日本が立っていればよい」
その夜、彼は『無冠の皇帝』として世界史の舞台から去った。いや、彼の言葉は、今後の日本外交文書の多くに、直接引用される「言語様式」として残り続けることになる。