第3章 1945年の「未来」は、分岐した
昭和20年(1945年)8月24日、沖縄本島・読谷飛行場
低く立ちこめる海霧の向こうに、米軍が残していったハンガーの骨組みが、歪んで見えていた。
西園寺一尉は、鉄骨の隙間から、その中心に鎮座する巨大な装置を見つめていた。それは、AN/SPY-1D(V)フェーズドアレイレーダー。護衛艦「かが」の艦橋上部に鎮座していた、「未来の目」だった。
3度目の保守点検を終えた後だった。機能停止の状態で保管されているはずのユニットから、わずかに放電ノイズが漏れている。自己診断回路が、まだ動作している可能性があった。
「……生きてる。80年前に、死んだはずの『目』が、まだ眠っていない」
後ろから、かつて旧海軍技術中佐だった村岡利一が現れた。
「これが、貴官の言っていた『位置制御レーダー』というものか」
「はい。1945年の日本にとっては『神の目』でしょうね。航空機の一群を100キロ以上先で一括追跡できる。それどころか、戦闘機のミサイル誘導も可能です」
村岡は黙ったまま、レーダーの放熱板に手を伸ばした。
「……しかし、これは『使ってはいけない』技術だな?」
西園寺はその言葉に答えず、小さく頷いた。
昭和21年(1946年)3月
【場所】 名護・海軍臨時研究施設(擬装名:資材整理班分室)
西園寺は、「ロナルド・レーガン」から取り外されたウィリアムズ情報処理装置(CIC)と火器管制ソフトウェアの入ったノートパソコンを前にしていた。
「君の記憶は、マニュアルより貴重だ。我々がこの装置の『制御』だけでなく、『考え方』まで引き継がなければ、いつか壊れてしまう」
それが、臨時国防技術庁と名を変えた旧軍技術局の参事官からの命令だった。その後、彼は数年間、表の記録すら与えられず、「未来技術の幽霊」として働き続けた。
昭和23年(1948年)2月
【場所】 沖縄・嘉手納・地下防空壕跡 地下3層、暗号区画
西園寺は、未来の核弾頭構造図を手にしていた。B61 Mod.4 ――可変出力型核爆弾。米軍が開発する直前、機密文書とともに回収されたこの「構造」は、ただの思惑ではなく、「選択の刃」だった。
「これを知る限り、我々は今後も『無知を盾』にはできない」
日本は、公式には核開発を否定する方針だった。しかし、臨時核技術局(別名:南風)が地下で組織され、将来を目指して核技術開発が進められていた。
西園寺は手を震わせながら、文書を密封した。
昭和24年(1949年)10月
【場所】 鹿児島・指宿沖臨時演習水域
西園寺は、「旧大和の艦橋構造を当時わずか数日で再設計した電探砲雷艇(仮称)」の試験指導官として立ち会っていた。旧海軍、そして元海自の生き残りたちが集い、「未来の片鱗」をどう再設計すべきか、密かに議論を重ねていた。
その中で、ある一人の中佐がつぶやいていた。「これは『再軍備』ではない。『過去の戦争』に戻らないための盾だ」
西園寺は、その言葉に静かに耳を傾けた。
「しかし、我々は未来から託された技術を、ただ受け入れるだけでなく、どう選択し、どう制御するのか。それが、覚悟を決めた者の義務だ」
そして彼は、SPY-1Dの残骸を思い出していた。
「この未来の遺物が 今、この世界の未来を、ここで試している」