第33章 台湾日本大使館 待避
DAY3
東京・危機対応センター
分厚い鉄扉の奥にある一室では、蛍光灯の光だけが、誰の顔色にも容赦なく降り注いでいた。壁際には折りたたみベッドと水のボトルが並び、ホワイトボードには「本日退避予定者:0名」の赤い文字。
「台湾台北事務所、最終班の退避完了」
「ソウルからの外交官班、対馬経由で福岡入り確認」
報告があった瞬間、一拍置いてから誰かが圧縮された息を吐いた。安堵とは違う、深い疲労の色だった。
「それで……アメリカは早かった」
支援班の若い課長補佐が呟く。
「――違う」
重低音のような声で、誰かが返した。通信参事官の高梨だ。官邸勤務を経て、多くの有事対応を担ってきた男である。
「『退避が遅れた』じゃない。我々は、『政治のために残された』んだ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
藤江康宏――台北の現地副所長が、避難班の後ろ姿を見送ったのは、ほんの30時間前のことだった。「あの人は戻ってこられますか」という台湾人職員の問いに、藤江はただ笑って、答えなかった。
そのとき、誰もが知っていた。日本の外交官たちは、「勝手に残された」。それは忠誠や美徳というよりも、国の「システムの都合」だった。
DAY0
始まりは、音のない「切断」だった。
衛星電話の接続遅延、衛星画像から消えた小型艦艇、そして衛星軌道に出現した未知のノイズ。
それでも――「出国を希望する大使館家族のリストを3時間以内に提出せよ」という通知が米国から届いたとき、日本の危機管理部門は、その「沈黙」の意味を悟った。
外交機能の維持か、命の確保か。
結論は出なかった。
その間に、米国大使館の家族は退避を完了。韓国においてもNEO(非戦闘員避難作戦)機が展開を開始していた。
DAY1〜DAY2
台湾では、交流協会職員の一部が「交通区域制限」によって取り残された。ソウルでは、仁川空港行きのバスが検問で停止された。
誰もが、命令に従った。誰もが、途切れ途切れの計画に協力した。
しかし、誰かが現地に残らなければならない。それが、日本の唯一の「現場」であると信じて。
DAY3:東京の朝
古賀参事官はモニター越しに、福岡空港の検疫ゲートを通過する外交官たちの姿を見ていた。濡れたスーツ。赤い目をした職員。避難先で泣き出す子供たち。
「もう、これで全部か……」
静かに誰かが呟く。
しかし、違う。まだ何も終わっていない。次は台湾海峡の本格的な封鎖、朝鮮半島の戦線崩壊が目前だ。
次に避難させるべきは――「民間人」。そして、「現地の人たち」だ。
誰がそこに残るのか。
誰が見届けるのか。
古賀は、その問いに答えず、ただ一枚のメモを見つめていた。
「次回の撤退計画には、『政治』を持ち込まないこと」
「――残るなら、命令ではなく、意思であれ」
それは、台北の藤江が最後に送ってきた、退避完了報告の末尾に添えられた言葉だった。




