第91章 静寂の破綻
日本海、水深200メートルの深海。 海自潜水艦「そうりゅう」の艦内は、照明が落とされ、静寂に包まれていた。薄暗い通路を照らすのは、計器の緑色の光と、各区画を結ぶ赤い誘導灯だけだ。機関音は極限まで抑えられ、耳を澄ませば、艦体を満たす冷却水の微かな循環音さえ聞こえるようだった。
艦長・村上二佐は、狭い艦長席で、冷徹なまでに冷静だった。しかし、内心の動揺は隠しきれない。台湾侵攻と北朝鮮の韓国侵攻がほぼ同時に始まり、世界は混沌の淵に立たされていた。日米同盟の根幹を揺るがす危機が、今、この日本海でも進行している。
ソナー員が、ヘッドセットを耳に当てたまま、沈痛な面持ちで報告した。 「艦長、新たな通信を傍受しました。やはり、米海軍の通常通信とは異なる暗号方式です」 「……内容は?」 村上の問いに、ソナー員はためらうように答えた。 「解読は困難ですが、断片的な単語が繰り返し流れています。
『加賀』、『赤城』、『沖縄』、『レイテ』……」 村上の背筋に、冷たいものが走った。それは、80年前の太平洋戦争における、旧日本海軍の空母の名であり、激戦地の名だ。 「グレイヴス艦長、彼は……本当に、過去の記憶に囚われているというのか」
村上は、匿名の緊急命令を思い返した。『CVN-76 ロナルド・レーガン、第7艦隊の指揮系統から離脱。独自行動中。同艦の行動を監視し、同盟関係に重大な危機をもたらす事態が発生した場合は、これを阻止せよ』 阻止せよ。その言葉の重さは、村上の胸に重くのしかかっていた。
その頃、ロナルド・レーガンの艦橋は、艦長以下士官5名が慌ただしく動いていた。しかし、その行動は、台湾危機や北朝鮮侵攻に対応するものではない。グレイヴス大佐の独断による、対潜攻撃作戦の準備だった。 「目標、そうりゅう型潜水艦。位置、舞鶴沖、深度200メートル付近」 グレイヴスの声が、響いた。
「80年前、奴らは我々の空母を沈めた。だが、今回は違う。我々が、歴史を終わらせるのだ」 彼の周囲には、彼の"記憶"を共有する数名の士官とパイロットが集まっていた。彼らの瞳は、狂信的な光を放っていた。
作戦士官が眉をひそめながら尋ねる。「艦長、台湾方面から繰り返し指令が届いています。第7艦隊への合流を──」 「台湾は、海軍の正規部隊に任せろ。我々の任務は、この海に潜む亡霊を討つことだ」
グレイヴスは、通信将校に命じた。「全周波数帯をジャミングしろ。外部との接触は遮断する。我々は、この海で完結する」