第87章 潜水艦「そうりゅう」
日本海域。水深六十五メートルの闇の底で、艦内は夜間行動灯の赤い光に染まっていた。艦体は潮流に溶け込むように静かで、聞こえるのはモーターの低い唸りと、水圧に軋む外殻の微かな声だけだ。
「横須賀総監部より通信要請。アンテナ深度まで浮上します」
航海長の声が、湿った空気を切った。艦長は短く頷き、操舵員に指示を出す。
舵輪がわずかに動き、艦首がそっと海面方向へ向かう。速度はツーノット。ソナー員が注意深く周囲を確認し、「艦影接近なし」と報告。艦はゆるやかに、そして確実に、海の天井まで近づいていく。
「——潜望鏡深度」
深度計の針が十五メートルで安定した瞬間、艦長は「マスト展開」と命令した。
司令塔の奥で油圧音が響き、潜望鏡、通信マスト、ESMマストが順に伸びる。艦長は潜望鏡を覗き込み、夜間光増幅モードで海面を一巡した。波間には、月明かりを遮るものはなかった。
通信員がSATCOM(衛星通信)の回線を確立し、低い声で報告する。「回線確立しました」
数分後、暗号士が一枚の用紙を艦長の机に置いた。紙の端がほんの少し震えていたのは、艦の微かな動きか、あるいはその内容の重さか。
「マストフォール、深度七十メートル。速力三ノット」
再び艦が沈み始め、海の重みが外殻を叩く。赤い光の中で、乗員たちは黙って次の動きに備え、深海の沈黙だけが艦を包んだ。