第7章:血のバイパス(虚血性脳血管障害)
意識の深淵へと再び沈降する。クオンタム・ダイブ(量子もつれを利用して過去の神経ログを再構成し、意識を同期させる技術)が、私の精神を西暦2025年の時空間へと定着させた。ネオ東京の空を舞う自律型都市交通ドローン(AIによって制御される無人航空移動体)の群れが、窓の外で幾何学的な光の軌跡を描いている。
私は今、大河内教授(21世紀初頭を代表する脳外科の権威)の視覚と触覚を完全に共有していた。立っているのは、2050年の現在では標準化されているが、当時は最先端だったハイブリッド手術室(高機能な血管撮影装置と手術設備を統合した手術空間)だ。
「……始めよう。患者は12歳の少女。もやもや病(脳の太い動脈が徐々に狭まり、それを補うために細い異常な血管網が形成される難治性疾患)による繰り返す一過性脳虚血発作だ。このままでは、遠くない未来に広範な脳梗塞を引き起こす」
私の口から出る声は、冷徹なまでに落ち着いていた。だが、大河内の内面では、一人の少女の未来を背負うという重圧が、微かな熱量となって渦巻いている。
今回の任務は、STA-MCA吻合術(浅側頭動脈という頭皮の血管を、脳の表面を走る中大脳動脈に繋ぎ合わせるバイパス手術)である。脳の「兵糧攻め」を防ぐため、外部から新たな補給路を構築する工学的作業だ。
「顕微鏡(手術用の拡大光学装置)の倍率を最大へ。これよりSTA(浅側頭動脈:こめかみ付近を走る頭皮の動脈)の剥離を開始する」
私は、髪の毛ほどの太さしかない血管を、周囲の組織から慎重に切り離していく。2025年の技術では、血管の自動接続デバイスはまだ治験段階であり、この時代においては、外科医の「指先の精度」こそが最高のテクノロジーだった。
「血管のアドベンチチア(外膜:血管の最も外側にある結合同組織の層)を丁寧にトリミングしろ。吻合の際にこれが入り込むと、スロンボーシス(血栓形成:血液が固まって血管を塞いでしまう現象)の原因になる」
私は自分自身に言い聞かせるように、マイクロ・シザース(顕微鏡下で使用する極小の手術用ハサミ)を動かした。2050年の私が驚愕したのは、その圧倒的な「アナログの極致」だ。
大河内の右手にあるのは、10-0ナイロン糸(直径約0.02ミリメートルという、肉眼ではほぼ見えない極細の手術用縫合糸)だ。これを、やはり目に見えないほど細い持針器(縫合針を保持するための精密器具)で操る。
「開頭(頭蓋骨の一部を切り外して脳を露出させること)箇所から、ターゲットとなるMCA(中大脳動脈:大脳の広範囲に血液を供給する重要な血管)のM4領域を特定した。ドナー血管と口径を合わせる」
脳の表面に、弱々しく拍動する受容側の血管が見える。もやもや病特有のもやもや血管(不足する血流を補おうとして異常発達した細く脆い血管の集まり)が、周囲に霧のように漂っている。
「これより吻合(ふんごう:繋ぎ合わせること)に入る。クロスクランプ(血管を一時的に遮断し、血流を止めるための小さな金属クリップ)を装着」
脳への血流が一時的に遮断される。許容時間は数分。この短時間で、針を通し、糸を結び、完璧な防水性を備えた「道」を作らなければならない。
(……静かだ)
大河内の集中力が、周囲の雑音を消し去る。心電図(心臓の電気的活動を記録するモニター)の電子音さえも、遠い世界の出来事のように思える。
針が、MCAの血管壁を貫く。
厚さは紙よりも薄い。抵抗を感じた瞬間に力を抜かなければ、血管は裂ける。
続いて、STAの端に針を通す。
二つの血管を引き寄せ、最初の結び目を作る。
「ステイ・サチャー(支持縫合:血管同士の位置を固定するための最初の一針)。よし、ここから連続縫合で一気に閉じる」
大河内の指先は、まるで精密なクロノグラフ(ストップウォッチ機能を備えた高精度な時計)のように、一定のリズムで動き続けた。
2050年の私は、その無駄のない動きに、一種の「美」を見出していた。
現在の医療は、バイオ・ナノプリンティング(細胞や生体材料を用いて直接組織を造形する技術)によって、血管など「印刷」すれば済む。だが、この2025年の光景には、失われゆく「職人の魂」が宿っている。
最後の一針を通し、結び目を作る。
「クランプ、リリース。血流再開」
閉じていたクリップが外される。
吻合部が、心拍に合わせて「ドクン」と膨らんだ。
漏れはない。透明な脳脊髄液の中に、鮮やかな赤い血液が新しいバイパスを通って流れ込んでいく。
「……成功だ。だが、まだ安心はできない。ICG(インドシアニングリーン:赤外線を当てると発光する特殊な造影剤)を投与しろ。ハイブリッド・イメージングを開始する」
手術室内に、巨大なアームが静かに滑り込んできた。血管撮影装置だ。
モニターに、脳内の血管網がリアルタイムで映し出される。
造影剤が、新しく作られた「血のバイパス」を通り、枯渇していた脳の領域へと勢いよく広がっていく様子が、白黒の反転画像として映し出された。
「パフュージョン(血流灌流:組織に血液が行き渡ること)、劇的に改善。もやもや血管の負担が軽減されている。これで、彼女の『回路』は守られた」
大河内の声に、微かな安堵が混じる。
12歳の少女は、この数ミリの糸によって、再び明日という時間を手に入れたのだ。
『警告。シナプティック・フィードバック(神経系からの過剰な情報の戻り)が増大。神宮寺事務官、同期を解除し、現実領域へ帰還してください』
2050年のシステム管理者の警告と共に、2025年のハイブリッド手術室が、デジタルな砂嵐へと分解されていく。
気がつくと、私はインターフェース・クレイドル(身体と機械を物理的に繋ぐ基盤)の上で、激しい発汗と共に目を見開いていた。 首筋のニューラル・コネクタ(神経接続端子)が自動的に解除され、プシュッという空気の抜ける音が静かな部屋に響く。
「……神宮寺事務官、おかえり。2025年の『血のバイパス』はどうだった?」
黒崎博士が、ホログラフィック・モニターを操作しながら尋ねる。
「……博士。あの数ミリの吻合の中に、当時の医師が抱えていた『責任』の全てが詰まっていました。現代の私たちがボタン一つで行うことが、あんなにも重い手応えを伴う作業だったとは」
私は、自分の指先をじっと見つめた。大河内の記憶が残した、あの微細な糸の感触が、まだ消えない。
「そうだ。だが、その『重み』が、次に行く第8章では少しずつ変質していく。ロボット支援手術(医師の操作をロボットが補正・増幅して行う手術)の本格的な導入だ。人間が自らの『手』を捨て、機械の『手』を借り始めた時代。準備はいいか?」
博士の問いに、私は短く頷いた。
科学が飛躍し、不確実性が消えていくプロセス。それは、美しくもどこか恐ろしい、人間消失の記録でもある。
私は再び目を閉じ、次なるダイブ、2025年の「ロボットの指先」の世界へと意識を沈めていった。
第7章 完




