第四章:人事権という名の放射線照射
親譲りの最適化バイアスが、ついに「左遷」という名の物理的な斥力を生み出したらしい 。東京鎮守府という巨大な質量を持つ組織において、九藤次長という特異点に逆らうことは、事象の地平線の彼方へ放り出されることを意味する。だが、あいにく私は物理学者だ。加速すればするほど、私のロジックという名の質量は増大し、奴らの「無誤謬性」という名の安っぽい殻を突き破るエネルギーに変わるだけである。
月曜の朝、私のデスクに置かれていたのは、一通の「人事異動通知書」だった。行政文書特有の、あの漂白されたような無機質な紙面。そこには、「組織改編に伴う業務最適化のため」という、反吐が出るほど「いやらしい」定型句が並んでいる。奴らは直接的な暴力を振るわない。ただ、評価と配置という名の「不可視の放射線」を照射し、対象の精神的な細胞を内側からじわじわと破壊していくのだ 。
「零君、これは君の卓越した計測能力を、最も必要とされる現場で発揮してもらうための『栄転』だよ」
執務室の奥で、九藤が例の赤ネクタイをいじりながら、薄気味悪い微笑を浮かべていた 。彼の背後にある窓からは、核の灰で白濁した東京の空が見える。九藤にとって、人事権とは盤上の駒を動かす指先のようなものだ。駒に感情があることなど、彼の「狂気の合理主義」の中では計算に入れられていない 。
「現場、ですか。具体的にはどこなんです」
「旧・港区の『ゾーン・ゼロ』だ。あそこはまだ残留放射線量が不安定でね。君のような、データに忠実な『人間線量計』が必要なんだ」
九藤の言葉は、氷のように冷徹だった。港区の「ゾーン・ゼロ」といえば、核弾頭の爆心地に近く、津波が引いた後も高濃度の汚染水が地下に溜まっている、文字通りのホットスポットである。行政が「浄化完了」と嘘をつき続けるために、敢えて一般市民の立ち入りを禁じ、都合の悪いデータを灰の下に埋め殺している場所だ。
窓口の方では、庶務係長の柴田が、私の私物が段ボールに詰められるのを眺めて、鼻を鳴らしていた。 「零さん、あそこは夏目漱石の時代なら、さしずめ『地の果て』ですな。規則を無視した『無鉄砲』な振る舞いが、物理的にどのような帰結を招くか、せいぜい万葉の古人に想いを馳せながら観測してくるといい」
柴田の顔には、厄介払いができたという安堵と、自分より高学歴で理屈っぽい若者が失脚していくことへの、小市民的な愉悦が滲み出ていた 。彼のような男にとって、規則は救済の道具ではなく、自分たちの「正しさ」を担保し、気に入らない存在を排除するための「鉄格子」なのである。
翌日、私は防護服の重みに耐えながら、瓦礫の山を越えて「ゾーン・ゼロ」へ足を踏み入れた。
そこは、時間が凍結された死の都だった。かつての高層ビルは、巨大な肋骨のように無残な鉄骨を晒し、防潮堤が万里の長城のごとく視界を遮っている 。ガイガーカウンターのクリック音は、もはやBGMというよりは、心臓の鼓動と同期して鳴り響く警告音となっていた。
人事権という名の放射線照射。
それは、私のキャリアを減衰させ、社会的な存在確率をゼロに収束させようとする九藤の「デバッグ作業」に他ならない。奴らは知っているのだ。どんなに正しいロジックを振りかざしても、物理的な「場」から隔離してしまえば、その声は誰にも届かない真空の叫びになることを。
だが、私は確信した。この灰の下にこそ、奴らが隠蔽しようとしている「真理」が眠っている。
ホットスポットの測量業務。それは九藤にとっては「懲罰」だろうが、私にとっては「聖域」への立ち入り許可証だ。行政文書が「ゼロ」と強弁する場所で、実際にメーターが振り切れる瞬間、私は奴らの「無誤謬性」の嘘を、物理的な事実として突きつけることができる。
放射線というエネルギーは、目には見えない。人事権という権力もまた、目には見えない。だが、どちらも確実に現実を歪める。私は自作の計測器を取り出し、灰にまみれた大地にセンサーを向けた。
九藤、柴田。お前たちが「記述されない生」として抹消した古賀のような人間が、この地の底でどれほどの怨嗟を募らせているか、お前たちは想像もしていないだろう 。お前たちの「安全神話」という名の脆弱なコードを、私はこのホットスポットから発信される「生のデータ」で、根底からメルトダウンさせてやる。
逆二乗の法則に従って、距離を置けば置くほど権力の照射量は減る。私はこの「地の果て」で、誰にも邪魔されない思考の加速器を回し始める。
祈りは、言葉の中にはない。
この汚染された大地を踏みしめ、嘘のない数値を一刻みずつノートに刻み込むこと。
それが、不適合者である私に与えられた、唯一の「再起動」のためのプロトコルなのだから。
風が吹き、核の灰が防護服のバイザーを白く曇らせる。私はそれを無造作に拭い、再び歩き出した。私の「坊っちゃん」的な無鉄砲さは、ここからが本番である。




