帝都への鉄の楔――大和、豊後水道へ
昭和二十年四月二十日、午後六時。
豊後水道の南東約四十海里、九州東方の日向灘沖合。
夕闇が急速に垂れ込め、太平洋と瀬戸内海を結ぶ水道の入口は、重い鉛色のうねりに覆われていた。
トカラ列島と屋久島南方の米潜水艦哨戒線を突破し、夜間索敵機の電波欺瞞をくぐり抜けてきた連合艦隊の残影――戦艦「大和」、イージス護衛艦「まや」、そして駆逐艦「雪風」「初霜」は、針路を北北西へと保ちながら、這うような十四ノットの巡航を続けていた。
先頭を進む「まや」の戦闘指揮所(CIC)。
青白いコンソールの明かりに照らされた機関残余表示は、非情な数字を突きつけていた。
「主機用ガスタービン軽油、残量十八パーセント。……豊後水道を通過し、呉軍港の係留地まで滑り込むための航程を、文字通り燃料タンクの底を舐めながら辿ることになります」
機関長の掠れた報告に、艦長の高梨一佐は静かに頷いた。
「増速は一切許されん。呉へ錨を下ろすその瞬間まで、一滴の燃料も無駄にするな。……大和の電信室との回線を繋げ。約束の時刻だ」
***
後方千五百メートルを進む、戦艦「大和」の第一艦橋。
装甲スリットの向こうには、微かに九州沿岸の山影が黒々とした稜線を描き始めていた。
艦橋内は灯火管制による鈍い赤色灯に照らされ、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将、艦長・有賀幸作大佐、そして副長・森下耕作大佐が、中央の作戦海図卓を囲んでいた。
その卓上には、一枚の起案用紙が置かれていた。
海自から持ち込まれた堅牢な耐環境端末「タフブック」の液晶画面を前に、森下副長が鉛筆で推敲を重ね、伊藤長官と有賀艦長が自らの名を入れた、前代未聞の極秘電文の草案であった。
第一艦橋の一隅に設置された専用VHF無線機の受話器から、「まや」の高梨艦長の声が流れてきた。
『各大和、こちら護衛艦まや艦長・高梨。本艦の通信解析班、ならびに暗号調定班の準備は完了しました。……大本営海軍部および陸軍参謀本部へ向けて、事前通告の打電を開始します』
伊藤中将は深く息を吸い込み、受話器へ向けて静かに答えた。
『伊藤だ。……高梨艦長、この電文を発信すれば、もはや後戻りはできぬ。市ヶ谷の統帥部は激震し、我らを狂気か、あるいは叛徒と疑うかもしれん。それでも往くのだな』
『ええ』高梨の返答には、一片の迷いもなかった。
『軍事力による局地的な勝利では、この国を救うことはできません。大和が坊ノ岬沖を生き延び、我々の電子戦と共に米空母の足を止めたこと――その奇跡のすべては、この電文を大本営の机上に叩きつけ、戦争を止める政治の歯車を動かすための前哨戦に過ぎないのです』
有賀艦長が、森下副長の肩を力強く叩いた。
「森下、電文を読み上げよ。第二艦隊司令部、大和、そして未来艦まやの三者連名だ。一字の揺らぎもあってはならん」
森下は直立し、起案用紙を両手で掲げた。
艦橋に詰める航海長、通信長、砲術長ら歴戦の士官たちが、固唾を呑んで副長の手元を凝視する。
「発信――第二艦隊司令長官・伊藤中将、大和艦長・有賀大佐、海上自衛隊護衛艦まや艦長・高梨一佐」
森下の張りのある声が、第一艦橋の鋼鉄の装甲を震わせた。
『宛先――海軍軍令部総長、陸軍参謀総長、海軍大臣、陸軍大臣、並びに呉鎮守府司令長官。
一、大和、まや、雪風、初霜は、天一号作戦および天二号作戦を完遂し、現在豊後水道沖を通過中、呉軍港へ向けて帰還中なり。第二艦隊は健在なり。
二、本艦隊は、八十年の時空を超えて出現したる我が友軍・海上自衛隊と合流し、その超近代なる科学電子戦力と協同防空・砲戦を展開。坊ノ岬沖における敵艦載機群、那覇沖の敵上陸船団を撃破し、さらには喜界島沖に来襲したる米新鋭原子力空母の飛行甲板を主砲射撃により粉砕、これを後退せしめたり。
三、しかるに、我が隊の奮戦と敵の恐慌により、米最高統帥部は「通常戦力による日本制圧は不可能」と断定。核分裂反応を利用したる究極の新兵器――「原子爆弾」の製造を四発体制へと急増させ、その標的として広島、長崎のみならず、小倉、さらには帝都・東京を指定せり。現地配備の期限は、この夏までなり。このまま無謀なる本土決戦・一億総特攻の美学に固執せば、我が国は数ヶ月の内に四発の熱核の炎に呑まれ、皇室も国民も灰燼に帰し、民族の滅亡を見るは火を見るより明瞭なり。
四、大和の生還は、奇跡にあらず、未来の科学と知性がもたらしたる動かぬ事実なり。本艦隊は呉着任後、統帥部および政府首脳に対し、未来の全物証を開示すべし。各員、無謀なる特攻命令を直ちに禁じ、国体護持を条件とする不可逆の講和工作を直ちに開始されたし』
読み終えた森下の額には、びっしりと汗が滲んでいた。
「特攻を禁じ、講和の準備を整えよ」。
大戦末期の日本軍において、それは軍刑法上の抗命罪、あるいは反逆とも受け取られかねない、恐るべき内容であった。
だが、伊藤整一中将は静かに目を閉じ、やがて確信に満ちた笑みを浮かべて頷いた。
「良い電文だ、森下。……大和の電信室へ回せ。海自と協同し、旧海軍最優先暗号にて大本営へ一斉打電せよ」
午後六時十分。
大和の巨大なマスト、そして「まや」の通信アンテナから、極めて強力な長波・短波パルスが夜の虚空へと解き放たれた。
***
同じ頃。東京・市ヶ谷の陸軍省地下深く掘り抜かれた大本営作戦会議室。
地下壕の淀んだ空気と換気扇の鈍い唸りの中、暗号電信室から血相を変えた通信参謀が転がり込んできた。
「そ、総長! 陸軍参謀本部、並びに海軍軍令部へ向けて、超緊急の極秘信電を受信いたしました!」
海軍軍令部総長・及川古志郎大将、軍令部次長・大西瀧治郎中将、陸軍参謀総長・梅津美治郎大将、そして陸軍大臣・阿南惟幾中将が一斉に顔を跳ね上げた。
「発信元はどこだ!」大西が怒鳴る。
通信参謀は、震える手で差し出したカーボン複写紙を前に、息を詰まらせた。
「発信元は……日向灘沖合を航行中の、戦艦大和! 第二艦隊司令長官・伊藤中将、有賀艦長、並びに『未来艦まや艦長』の三者連名であります!」
「大和だと……!? 呉へ帰還中だと!?」
及川総長の手からペンが落ちた。
坊ノ岬沖で米機動部隊の空襲を受け、沖縄の露と消えたはずの連合艦隊旗艦。それが生き延び、喜界島沖で米新鋭空母を退け、今まさに母港・呉の目と鼻の先まで戻ってきているというのだ。
電文を奪い取った梅津参謀総長が、その文面に目を走らせるにつれ、その厳格な顔面から血の気が引いていった。
「新型爆弾が四発……! 東京と小倉が標的だと……!? 特攻を禁じ、講和の準備を整えよとは何事だ!」
「馬鹿な! 敵の謀略電波ではないのか!」
大西次長が机を拳で激しく叩いた。
「大和の通信機が米軍に奪われたか、あるいは反乱部隊の狂言だ! 戦艦大和ほどの栄光ある艦が、講和などという敗北主義の言葉を吐くはずがない!」
「謀略電波ではありません!」通信参謀が叫んだ。
「海軍大臣、並びに総長専用の最高度暗号表『海軍暗号書D』の最新鍵が完全に一致しております! さらに、発信電波の周波数と音調は、大和の主送信機そのものです! そして……」
参謀は息を呑み、言葉を絞り出した。
「呉鎮守府、佐伯防備隊、並びに宿毛の監視哨からも目視報告が入電しました! 豊後水道沖合を、大和と駆逐艦二隻、そして……煙突がなく四角いレーダーを輝かせた、あの『正体不明の未来艦』が堂々と並航しているのを確認したと!」
市ヶ谷地下壕の会議室が、地鳴りのような沈黙に包まれた。
大和が生きて帰ってくる。
死ぬために出撃したはずの世界最大の巨艦が、未来の異形艦を従えて、破滅の宣告と講和の要求を携え、帝都の喉元へと迫っている。
統帥部が築き上げてきた「一億総玉砕」の虚構の楼閣に、冷酷にして動かぬ巨大な鉄の楔が、いま決定的に打ち込まれようとしていた。




