第47章 「漢江を越えろ」
ソウル北方・高陽市南端/朝鮮人民軍 第26機械化師団 前進指揮所
夜明けの空は、濁った灰色だった。泥に覆われたBMP-3の装甲に、雨と油煙が筋となって垂れている。
指揮車両のハッチから身を乗り出したパク・ヨンギル少将は、双眼鏡を南へと向けた。漢江の向こう、ソウル市街のビル群は煙にかすんでいる。つい先ほど爆破されたばかりの橋脚が、流れに押されて軋む音がここまで聞こえてきた。
通信員が駆け寄ってきた。「同志少将、前衛連隊が恩平区の市街地外縁に到達。歩兵の損耗は軽微ですが、南軍のATGM(対戦車ミサイル)班が——」
パクは遮るように手を振る。「無視しろ。BMPを盾にして歩兵を押し込め。北岸の橋頭堡が広がる前に、漢江の渡河地点を確保せよ」
後方の高射大隊から無線が入る。「MiG-29編隊、南軍戦闘機と交戦。損耗あり、後退中」
パクは無言で舌打ちした。空の優勢は期待できない。それでも、政治局からは「48時間以内にソウル制圧」という命令が、しつこく届く。これは、時間との戦いだった。
副官が地図を指し示す。「同志少将、渡河用浮橋部隊が到着まであと40分。ですが、南軍砲兵の射程内に入ります」
パクは数秒考え、命令を下す。「ならば、砲兵は先に撃たせろ。恩平区から南岸の予想射撃陣地まで、全部叩け。弾薬を惜しむな」
指揮所の周囲で、BM-21多連装ロケットが火を噴く。次の瞬間、南岸の空が赤く染まった。
パクは双眼鏡を下ろし、低く呟く。
「橋を失っても構わん。川は渡れる。問題は——その先だ」
遠くで戦車のエンジンが唸り、川の匂いと火薬の匂いが混ざった風が吹き込んできた。パクの脳裏には、政治局からの次の通信が浮かんでいた。
——“遅れるな。世界は見ている。”




