第46章 漢江の北岸
ソウル市恩平区
夜明け前から降り続いていた煙の匂いが、肺の奥に重く沈み込んでいた。
漢江の北側、市街地のビル群は半分以上が停電し、窓の向こうは真っ暗だ。その闇の奥で、ときおりオレンジ色の閃光が弾ける。次の瞬間、空気が歪み、ビルの壁が波のように震えた。
「——またか……」
韓国陸軍第1機甲旅団の曹長、キム・ジュンホは、耳元の無線に手を当てながら低くつぶやいた。砲弾の着弾間隔が短くなっている。北側の多連装ロケットが、発射位置を変えながら押し寄せている証拠だった。
路地の奥、地下鉄の入り口から人の波があふれ出る。避難誘導の兵士が叫んでいるが、その声は砲声にかき消された。ジュンホは視界の端に、小さな女の子を抱いた女性を見た。女性の足は泥で滑り、子どもは泣き声を上げる。その瞬間、北東方向で白い閃光が走り、続けて、腹の底を揺さぶる衝撃波が駆け抜けた。
「橋だ……」
隣の伍長が呟いた。高陽方面と市街地を結ぶ橋の一つが、爆破されたのだ。韓国軍が渡河阻止のために実施した。しかしそれは同時に、北岸に取り残された民間人の帰還路が、ひとつ消えたことを意味していた。
ジュンホの無線が急にざらつく。「……敵装甲車両、恩平区北端。数は……確認中。歩兵随伴あり」報告の声は荒い息にまぎれていた。北の機甲部隊がついに市街の境界線に現れたのだ。
遠くで、自走対空砲の曳光弾が夜空を裂き、次いでMiG-29が低空で通過する影が見えた。だが、その機影は南から来たF-15Kの編隊に絡まれ、あっという間に旋回して退いた。空では韓国軍が優勢だ。それでも、地上の圧力は確実に増していた。
地下鉄構内に押し込まれた避難民の中から、「家に帰らなきゃ……!」と叫ぶ老人の声が響く。だが、兵士たちは顔を見合わせ、何も言わなかった。
——漢江の北側は、もう戻れない場所になりつつあった。