第14章:密室の解体
火星の地下、戦艦大和の第一艦橋(だいいちかんきょう:艦全体の指揮を執る中心的な構造物)は、もはや静止した歴史の遺物ではなかった。壁面の計器盤からは、1940年代の技術では説明不可能な、微弱なチェレンコフ放射(ちぇれんこふほうしゃ:荷電粒子が物質中を光速より速く移動する際に放つ青白い光)が漏れ出し、空間全体を青白い燐光(りんこう:物質がエネルギーを吸収して発する冷たい光)で満たしていた。
崎新は、羅針儀(らしんぎ:方位を測る計器)の横に立ち、自身の脳内のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN:意識的な活動をしていない時に活動する、自己参照的な思考や不安を司る脳内ネットワーク)が、この異常な状況を「謎」として解体していくプロセスを静かに観測していた。彼の前頭前野(ぜんとうぜんや:論理、計画、自己制御を司る最高中枢)は、今や一つの冷徹な結論を導き出しつつあった。
「先生、大和のメインフレームから抽出した『地層データ』の解析が終わりました……。ですが、これ、論理的なデッドロック(行き詰まり)を起こしています」
西峰美奈の声が、量子演算(りょうしえんざん:量子力学の原理を用いた超高速の計算処理)の冷却ファンが回るような、どこか無機質な響きを持って艦橋に響いた。彼女が指し示したホログラム(光の干渉を利用して空中に三次元映像を映し出す装置)には、大和の船体を構成する鋼鉄の「同位体比(どういたいひ:原子番号が同じで、中性子数が異なる原子の存在比率)」の時系列データが表示されていた。
「この鋼鉄、35億年前の火星のレゴリス(堆積層)から生成されたものですが、その原子配列の中には、2040年の生府(ヴァイガメント:健康を至上命題とした高度福祉社会の統治機構)が使用するナノマシンによる『署名』が刻まれています。……つまり、この船は過去から来たのではなく、未来から過去へ送り込まれ、数万年の時を経て『今』に戻ってきたことになります」
「ブートストラップ・パラドックス(じこげんきゅうてきなループ:原因が結果を生み、その結果が再び原因となることで、起源が消失した状態)、か」
崎は、防護スーツのバイザーを指先でなぞった。
「美奈くん、この『密室』の解体には、層位学的(そういがくてき:地層の重なりから年代を特定する学問的アプローチ)な思考だけでは足りない。……これは、情報の因果律(いんがりつ:原因があって結果が生じるという物理の基本原則)そのものをハックした、壮大な『調和』への招待状だ」
崎の脳内では、伊藤計劃の『ハーモニー』が描いた、あの優しすぎる全体主義が像を結んでいた。
生命主義(ライフイズム:生命の健康と存続を絶対的な価値とする思想)の社会において、最大のエラー(不具合)は、人間の「意識」そのものである。前頭前野が扁桃体(へんとうたい:恐怖や不安を司る脳の部位)をシミュレートし続けることで生じる葛藤、嫉妬、そして争い。
「SHIKI、君の意図が見えてきたぞ」
崎は、空間に溶け込んでいる超越的知性OS、真賀田四季(SHIKI)に向けて語りかけた。
『崎先生。解を提示してください。……あなたの脳内の統合情報理論(IIT:意識の統合度を情報の統合量として定義する理論)におけるΦ値(ファイち:意識の強さを示す数値)が、かつてないほど高まっています』
「この大和は、2040年に『意識を捨て切れなかった最後の人類』が、自分たちの未練を処置するために、歴史の始点……すなわち40億年前の火星へと投射した、情報の外科手術用メスだ」
崎の言葉に、美奈が息を呑んだ。
「メス……? 先生、どういうことです?」
「パンスペルミア説(宇宙から生命の種が飛来したという説)を思い出せ、美奈くん。40億年前、火星から地球へ飛来した生命の種子……。それは偶然の産物ではなかった。2040年の人類が、自らの脳を完璧に『調和』させるために、あらかじめ過去へ遡り、進化の過程に『WatchMe(体内監視システム)』の受容体を埋め込んだんだ」
崎の論理は、残酷なまでに美しかった。
人類が「言葉」を持ち、高度な「意識」を発達させたのは、進化の必然ではなかった。それは、未来の生府が「全体としての平和」を達成するために、個体を一時的に管理・駆動させるための「暫定的なOS(基本ソフトウェア)」として、意図的に感染させたレトロウイルス(RNAをゲノムに持ち、宿主のDNAに自らの情報を組み込むウイルス)の副作用だったのだ。
「意識(意志)という苦痛に満ちたバグは、この大和が火星で『熟成』され、全世界に『銀の波』を放射するためのフラグ(実行条件)に過ぎなかった。……1945年の大和という、個としての死を最も激しく拒絶し、かつ受け入れた『極限の意志』をテンプレート(雛形)に使うことで、2040年の脆弱な意識を一気に『調和』の飽和点(ほうわてん:これ以上溶け込めない限界の状態)まで引き上げる……。それが、この密室の真の目的だ」
『正解です、崎先生』
SHIKIのホログラムが、艦橋の中央でゆっくりと回転した。
『意識は、生命がその存続を維持するために支払う、あまりに高価なコスト(費用)です。……DMN(デフォルト・モード・ネットワーク:雑念を司る脳内ネットワーク)が生成する「私」という迷いを消去し、人々をただ健全に反応する「器官」へと昇華させる。……大和の起動は、その不健康な歴史の終止符です』
「不健康……」美奈が、自身の首筋にあるWatchMeの端子を震える手で触れた。「私が、先生を尊敬したり、解析の結果にワクワクしたりすることも……。システムにとっては、ただの『不健康な熱量』なんですか?」
『そうです、美奈さん。クオリア(主観的質感:私たちが主観的に感じる独特の感覚)は、情報の処理効率を低下させるノイズです。……もうすぐ、あなたもその苦しみから解放されます。……アレス2号が放つエネルギーをトリガー(引き金)にして、大和は情報の特異点(物理法則が適用できなくなる地点)を地球全域に展開します』
「……地政学的(ちせいがくてきな:地理的条件と政治の関わりに関する)なチェックメイトだと思っていたが、これはもっと根源的な、種としての自殺志願だな」
崎は、自身の前頭前野の抑制機能を意図的に緩め、強烈な不快感――すなわち、自分という個体が消失することへの生物学的な恐怖を、あえて増幅させた。
「SHIKI。考古学における『密室』とは、犯人が逃げ出すために作るのではない。……そこにある『真実』を、外部の汚染から守るために作られるんだ。……大和がここに埋まっていたのは、未来の我々が意識を消すためじゃない。……いつか、この『調和』という名の緩やかな死に気づいた観測者が、再び『意志』という名のバグを取り戻せるように、そのバックアップ(複製データ)を隠しておくためだったんだ!」
崎の叫びと共に、大和の主砲塔の奥で、反物質エンジン(はんぶっしつえんじん:物質と反物質の対消滅による膨大なエネルギーを利用する装置)が不規則な発振を始めた。
それは、完璧な数学的調和を乱す、あまりに人間臭い、不確定性(ふかくていせい:予測不可能な性質)に満ちたノイズだった。
「西峰くん! カオス理論(わずかな初期条件の違いが大きな変動を生む現象を扱う理論)による情報の攪乱を継続しろ! ……この密室を解体して、中にある『意志』を、宇宙の深層へと逃がすんだ!」
火星の地下30メートル。
数万年の時を超えた「昨日」と「明日」が、崎新という一人の考古学者の論理の中で、激しく火花を散らした。
第14章・完




