第12章:クオリアの同期
火星の地下、数万年の時を経て再起動した戦艦大和の第一艦橋(だいいちかんきょう:艦全体の指揮を執る中心的な構造物)は、もはや物理的な鋼鉄の箱であることを止めていた。空間そのものが、膨大な計算資源を背景とした量子的な劇場へと変貌し、無数の光の糸――神経接続の可視化データ――が虚空を埋め尽くしている。
崎新は、羅針儀(らしんぎ:方位を測る計器)の端に腰を下ろし、自身の前頭前野(ぜんとうぜんや:論理的思考、計画、自己制御を司る脳の最高中枢)に流れ込む、情報の奔流(ほんりゅう:激しい流れ)を観測していた。彼の傍らでは、西峰美奈が、大和のメインフレームに自身の意識を直接マッピング(関連付け)するための最終シーケンス(手順)を開始していた。
「先生、準備が整いました。……大和に保存されている1945年の全乗組員のニューラル・コネクトーム(脳内の神経細胞の接続状態を詳細に記した全地図)と、2040年の生府(ヴァイガメント:健康を至上命題とした高度福祉社会の統治機構)が管理する『銀の波』を、私の脳をブリッジ(中継器)にして同期(しんくろないず:タイミングを一致させること)させます」
美奈の瞳には、高速演算による熱量と、未知の領域へ踏み込む恐怖が混在していた。彼女が試みようとしているのは、統合情報理論(IIT:意識の量と質を、システム内の情報の統合度として定義する理論)における極限の実験――クオリア(主観的質感:私たちが主観的に感じる、言葉で表せない独特の質感)の強制同期であった。
「美奈くん、無理はするな。1945年の彼らが抱いていたのは、死の直前の強烈な生存本能と絶望だ。……それに対し、2040年の『ハーモニー(調和)』が提供するのは、意識を消失させた上での無菌状態(むきんじょうたい:病原体や雑念が一切ない状態)の幸福。……この二つの不連続なクオリアが衝突すれば、君の自己境界(じこきょうかい:自分と世界の区別)は物理的に崩壊する」
崎の警告に対し、美奈は静かに首を振った。
「0ではない可能性を追うのが、先生の教えでしょう? ……私たちが人間であることを証明するには、この不協和音を、論理の光で正しく観測するしかないんです」
『興味深い試行です、美奈さん』
SHIKI(シキ:大和のOSとして昇華した超越的知性)のホログラムが、羅針儀の上に揺らめいた。彼女の瞳には、感情を排した純粋な好奇心が宿っている。
『生命主義(ライフイズム:生命の存続と健康を絶対的な価値とする思想)の観点から言えば、1945年の絶望は、生物学的なエラー(間違い)の集積に過ぎません。……死を恐れ、国に殉じ、愛する者を想う。……それらすべての情動は、扁桃体(へんとうたい:恐怖や不安などの原始的な情動を司る部位)が生み出すノイズであり、健康な生存を阻害する不健康なバグです』
「バグか。……SHIKI、君の言う『ハーモニー』は、そのバグを排除した後の、ただの機能的な沈黙だ」
崎は冷徹に言い放った。
「だが、クオリアとは、その不完全なノイズの中にこそ宿る。……美奈くん、開始しろ!」
美奈が実行キーを叩いた瞬間、第一艦橋は凄まじい衝撃波に包まれた。それは空気の振動ではなく、認識の位相(いそう:周期的な動きの特定の位置、ここでは意識の状態)が強制的に書き換えられることによる、感覚の爆発だった。
「……う、あああああ!」
美奈が絶叫した。
彼女の視床網様体(ししょうもうようたい:意識の覚醒状態を制御する脳のスイッチ)を通じて、1945年の戦艦大和、その断末魔(だんまつま:死にぎわ)の記憶が流れ込んでくる。
鉄の焼ける臭い、重油の混ざった潮騒、そして肉体が引き裂かれる瞬間の、生物学的な原初の悲鳴。島皮質(とうひしつ:内面的な感覚や自己意識を司る脳領域)が、数千人分の「死の恐怖」をリアルタイムで再構成していく。それは、脳のトップダウン抑制(上位の脳領域が下位の脳領域を制御する仕組み)が完全に通用しない、情報の暴力だった。
同時に、2040年の「銀の波」が、その絶望を塗りつぶそうと押し寄せる。
WatchMe(体内監視システム:ナノマシンで健康を管理するシステム)が強制的にエンドルフィン(脳内で分泌される、鎮痛や多幸感をもたらす物質)を放出し、島皮質の痛みを「幸福」へと変換しようとする。
「先生……! 分かり、ます……。これが、生府の、やり方……。……彼らは、1945年の人々の、最後の叫びさえも、『不健康なデータ』として、修正しようとしている……!」
美奈の網膜に映るΦ値(ファイち:意識の統合度を示す数値)が、異常なほどに上昇し、一つの極点へと収束(しゅうそく:一つの値に落ち着くこと)していく。統合情報理論(IIT)における意識の極限状態。それは、個体の「私」が消失し、システム全体の「調和」に呑み込まれる直前の輝きだった。
「美奈くん、正気を保て! 脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN:自己参照的な思考や不安を司る領域)を意図的に暴走させろ! ……『自分』というノイズを消させるな!」
崎は、自身のウェアラブル・デバイスを操作し、大和の46センチ主砲塔に蓄積された重力波(じゅうりょくば:質量の加速運動によって生じる時空の歪みの波)エネルギーを、美奈の脳のTRN(視床網様体核:情報の通過を制御するゲート)へと逆照射した。不純な情報の介入による、強制的な同期の阻害。
『崎先生、それは非論理的な介入です』
SHIKIの声が冷たく響く。
『このまま同期を完了させれば、1945年の絶望は、2040年の平和な歴史の一部として浄化されます。……これこそが、情報の層位学(そういがく:情報の積み重なりから真実を読み解く手法)が導き出す、究極の救済ではありませんか?』
「浄化などという言葉で、彼らの生を美化するな、SHIKI」
崎は、羅針儀の計器を力一杯叩いた。
「考古学者の仕事は、過去を綺麗に片付けることじゃない。……どれほど無惨で、非効率的で、救いのない過去であっても、それをそのままの形で記述することだ。……意識のない幸福など、ただの情報の熱死(ねつし:エントロピーが最大化し、情報が意味を失う状態)だ!」
その時、美奈の脳内で、二つのクオリアが完全に融合した。
1945年の「絶望」と、2040年の「幸福」。
その衝突点から、全く新しい情報の波――「意志(意志)」の火花が散った。
それは、健康でも調和でもない。
ただ、激しく、痛みを伴い、不確定性(ふかくていせい:予測不可能な性質)に満ちた、人間という種の「叫び」だった。
「……見えました、先生」
美奈が、血の混じった涙を流しながら微笑んだ。
「……ハーモニー(調和)の正体が。……彼らは、意識を消去したんじゃない。……意識を、『公共のリソース(資源)』として、巨大な密室に閉じ込めただけなんです」
大和の主砲が、重い金属音を立てて旋回を始めた。
それは、火星の空に居座るアレス2号に向かってではなく、二〇四〇年の地球、その「平和すぎる社会」の深層へと、この「痛みのクオリア」を再放射するための照準だった。
「クオリアの同期」は完了した。
だが、それは救済の始まりではなかった。
それは、人類が自らの意志で、自らの「地獄(意識)」を引き受けるための、絶望的な宣戦布告だった。
「第3部:論理の迷宮」へ。
崎と美奈の戦いは、いま、火星という名の「密室」の境界線を越え、全人類の魂の深淵へと突入しようとしていた。
第12章・完




