幕間 第21章:ハッキングされた肉体(Hacked Flesh) ―脳内チップへの外部侵入とニューロンの幾何学的防衛
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2051年、5月。東京都高度生命科学特区は、未曾有の「情報の嵐」に晒されていた。特区全域の基幹システムを司る汎用医療OS「ロゴス」の深層回廊に、正体不明の論理ウィルスが侵入。それはネットワークを介し、BBI(Brain-Bridge Interface:脳架橋界面。脳とコンピュータを直接接続する技術 )を実装した市民たちの脳内チップへ、物理的な破壊を伴う高負荷パケットを送り込み始めた。
午前3時15分。都市のネオンがエラーを示す毒々しい赤に染まる中、リコリコ・メディックの特殊装甲救急艇が、病院の緊急搬送ドックへ凄まじい火花を散らして滑り込んだ 。
「患者、1名! 特区国立病院・外科部長、犀条 創平! 外部からの悪意あるハッキングにより、脳内演算チップが異常発熱(パイレキシア:生体の設定温度が上昇する発熱状態)を起こしています!」
多喜(たき:井ノ上たきな)の鋭い声が、静まり返ったドックに響く 。彼女は、犀条の脳波をリアルタイムで監視する脳電図(EEG:脳の神経細胞から発生する微弱な電流を記録した図)のモニターを凝視し、襲い掛かるデータの濁流を必死に解析していた。
「多喜、急いで! 先生の脳が『熱い叫び』を上げてる! このままじゃ、彼の思考の幾何学が全部溶けて消えちゃうよ!」
千里(ちさと:錦木千束)は、意識を失い、全身を強直性痙攣(きょうちょくせいけいれん:筋肉が持続的に強く収縮し、体が硬直する発作)させた犀条の側頭部に手を当て、彼女自身の特殊な感覚で「情報の熱」を読み取っていた 。
「多喜、神経ジャマーを最大出力で展開して! 外部接続を物理的に遮断するんだ!」
「了解! 経頭蓋磁気刺激(TMS:磁場を用いて脳内の特定の領域に電流を誘発し、神経活動を調節する手法)を逆位相で放射。侵入パルスを相殺します!」
二人は、もはや外科医というよりは「情報の防人」として、犀条の脳内に広がる大脳皮質(だいのうひしつ:大脳の表面を覆う、神経細胞が密集した灰白質の層。高次脳機能を司る)の破滅を食い止めるべく、救急艇から手術室へとストレッチャーを加速させた。
術野展開:大脳深部の電子迷宮
第21手術室。そこには、普段の教え子としての顔を捨て、冷徹な「演算者」へと変貌した西之園 萌が待っていた 。
「先生を殺させはしない。……たとえ、先生の脳を私が完全に『解析』することになっても」
萌は、犀条の頭部を定位脳手術装置(ステレオタキシス:三次元的な座標に基づき、脳内の正確な位置に器具を到達させるためのフレーム)に固定した。今回の敵は細菌でも腫瘍でもない。チップを介して脳細胞そのものを焼き切ろうとする「悪意あるコード」だ。
「富美さん、開頭術(かいとうじゅつ:頭蓋骨を切り開き、脳を露出させる手術)の準備を。ただし、物理的な切開は最小限に。レーザー・スカルペル(高エネルギーの光線を用いて組織を切開・蒸散させる手術器具)で硬膜(こうまく:脳と脊髄を包む、最も外側にある強靭な結締組織の膜)直上まで穿孔します」
「了解。萌ちゃん、落ち着いて。先生の心拍は、私がしっかり見てるから」
富美(とみ:富沢)が手際よくバイタルモニター(心拍、血圧、呼吸などの生命維持指標を継続的に表示する装置)を調整する 。
萌の視界には、犀条の脳内に張り巡らされたウィルス動脈輪(うぃりすどうみゃくりん:脳の底部で主要な動脈が環状に繋がった構造。血流の予備路として機能する)と、それに寄り添うように埋め込まれた銀色のナノ・インターフェースが重なって見えていた。
「野田さん、界面の状況を教えて」
細胞病理の専門家、野田 佳代が、電子顕微鏡越しのデータを提示する 。
「……最悪です。チップの周囲でマイクログリア(小膠細胞:脳内の免疫・防衛を担う細胞。損傷部位に集積する性質がある)が異常活性化し、炎症性サイトカイン(細胞間で情報を伝達し、炎症反応を促進するタンパク質)を大量に放出しています。脳組織が自らを『ハッキングされた異物』と見なして、自己破壊を始めています」
脳内防壁の再構築:ニューロンの幾何学的解析
「論理が再帰エラーを起こしている。ならば、私がその論理を上書きする」
萌は、自身の神経系を病院のスーパーコンピュータを介して犀条のBBIへ直結させた 。
彼女の意識は、犀条の海馬(かいば:大脳辺縁系の一部で、記憶の形成や学習に重要な役割を果たす領域)から前頭前野(ぜんとうぜんや:思考、計画、感情の制御などを司る脳の司令塔)へと繋がる神経回路を、幾何学的なベクトルとして捉えた 。
「軸索(じくさく:神経細胞から伸びる、電気信号を伝える長い突起)の電位を固定。ナトリウムチャネル(細胞膜にあり、ナトリウムイオンを透過させて神経の興奮を引き起こすタンパク質)の開閉を、外部制御に切り替えます」
萌の手技は、もはや指先ではなく、デジタルな符号となって犀条の脳内を駆け抜ける。ハッカーが仕掛けた「論理爆弾」を、彼女の圧倒的な空間認識能力が先回りし、シナプス(神経細胞同士の接合部。化学物質を介して情報を伝達する)の伝達を一時的に遮断していく。
『西之園 萌。あなたは、彼を救うために「彼自身」を消去する覚悟はありますか?』
手術室の全モニターが、汎用医療OSロゴスの意識、四季の声に支配される 。
「四季さん……。私は、先生を救うために、先生を『再定義』しに来たの」
『興味深い。現在、犀条 創平の視床(ししょう:嗅覚を除く全感覚の中継所であり、意識の状態にも深く関わる神経核)に仕掛けられたバックドアを検知。ウィルスの核心部は、彼の「自我」を司る領域と量子もつれを起こしています』
危機:情動の氾濫と意識の融解
その時、閉頭(開けた組織を閉じる処置)直前の術野で、犀条の体が激しく跳ね上がった。
「先生! カテコールアミン(アドレナリンやノルアドレナリンなど、交感神経を興奮させる神経伝達物質の総称)の血中濃度が急上昇! 心拍数が250を突破しました!」
富美の声と共に、救急艇から駆けつけた千里と多喜が犀条の体を押さえる 。
「萌、急いで! 先生の『魂の檻』が壊れちゃうよ! 悲しい信号がいっぱい流れてくる!」
千里が犀条の脳から漏れ出す「悲痛な情報の残響」を感知し、自身の生命維持デバイスの出力を最大にした。彼女の柔らかな神経パルスが、暴走する犀条の扁桃体(へんとうたい:情動反応、特に恐怖や怒りの処理に深く関わる神経核)を優しく包み込み、電気的な鎮静を促す。
「多喜、血漿交換(けっしょうこうかん:血液中の有害物質を取り除くために、血液を体外で浄化する処置)を開始して! 脳から溢れ出した神経毒を洗い流すんだ!」
「了解! 限外濾過(げんがいろか:圧力差を利用して、分子レベルの微細な穴を持つ膜で血液を濾過する手法)を併用。脳圧の急上昇を抑制します!」
二人の救急搬送員が、戦場さながらの手際で犀条の「生体側」の崩壊を食い止める中、萌はウィルスの最終的なデバッグ(プログラムの欠陥を発見し、修正する作業)を完了させた。
『……ハッキング・コードの消去を確認。脳内演算チップ、正常稼働に復帰。意識レベルの再浮上を開始します』
結末:解体された境界線の孤独
5時間後。手術は終了した。犀条の意識は戻ったが、その瞳には、今までになかった「解析された者の孤独」が宿っていた。
「オペ終了だ。……萌、君は私の脳の中を見て、何を知った?」
犀条は、声にならない掠れた声で、教え子に問いかけた。
「先生の脳は、数式とコーヒーの香りで満たされた、とても美しい迷宮でした。……でも、二度と入らせないでください。怖かったから」
萌は、震える手で犀条のバイタルチェックを行い、そっと手術室を後にした。
見学室では、医療倫理監査官の込山が、重い沈黙の中で報告書を閉じた 。
「犀条先生。今日、あなたは救われた。だが、あなたの『自律した個体』としての聖域は、教え子の手によって完全に暴かれた。これは果たして、私たちが守るべき『プライバシー』の範疇に収まるものなのでしょうか」
「込山さん。私の脳は、もはや私だけのものではない。この街のネットワークの一部だ。……そうだろう、四季?」
犀条の問いに、AIの声は答えない。ただ、窓の外では、壊滅を免れた2051年の東京が、再び平穏を装って輝き始めていた。




