幕間 第10章:視神経の拡張(Enhanced Vision) ―赤外線視覚の付与と視覚野への直接符号化―
2051年、11月。東京都高度生命科学特区の夜は、物理的な闇を完全に追放していた。高層ビルの壁面を流れる広告の明滅と、幾千万のドローンが描く光の軌跡。この街で生きるということは、情報の奔流を視覚的に処理し続けるという、網膜への過酷な奉仕を意味していた。
午前1時50分。国立病院の第10手術室(OR-10)へ、リコリコ・メディックの千里と多喜が緊急搬送した患者が運び込まれた。
患者、20代男性。特区の深層偵察官。任務中に高出力レーザーの直撃を受け、両眼の網膜(Retina:眼球の最内層にあり、光を電気信号に変える神経組織)が完全に焼失しています!
多喜(たき:井ノ上たきな)が、患者の頭部スキャンデータを犀条に転送しながら叫ぶ。彼女の瞳には、冷徹なまでのプロフェッショナリズムが宿っている。
多喜、彼の視覚情報系、完全に『黒』だよ。光を感知する錐体細胞(Cone cells:明るい場所で色や形を識別する視細胞)も、暗所で働く桿体細胞(Rod cells:わずかな光を感知する視細胞)も、熱で融解して炭化してる。
千里(ちさと:錦木千束)は、患者の眼窩(Orbit:眼球が収まっている頭蓋骨のくぼみ)を覗き込み、自身の特殊な感覚受容体を通じて、消失した情報の欠落を嘆いた。
無残だな。光という名の論理を失った肉体は、もはや暗闇という名の迷宮に閉じ込められたに等しい。萌、この患者の視神経(Optic nerve:網膜からの情報を脳へ伝える第2脳神経)の残存伝導率を算出せよ。
手術室の暗がりに、犀条 創平の乾いた声が響く。彼は手元の保温カップから、カフェイン濃度の極限まで高められたブラックコーヒーを一口啜り、思考を加速させた。
先生、既にトポグラフィー(立体配置図)を構築済みです。眼球側の損傷は致命的ですが、視神経交叉(Optic chiasm:左右の視神経が交差するX字型の部分)以降の中枢側は健全です。視索(Optic tract:視神経交叉から外側膝状体へ至る情報の通り道)への直接介入が可能です。
西之園 萌は、術野の3Dホログラムを指先で展開し、脳の深部にある視覚伝導路を色鮮やかに強調した。彼女の直感演算は、犀条の論理的推論を常に数秒先回る。
よし、オペを開始する。生体の目を再生させるのではない。鵜飼から調達した『マルチスペクトル人工網膜ユニット』を接続し、視覚野(Visual cortex:大脳後頭部に位置し、視覚情報を最終的に処理する領域)へ直接符号化(Encoding:情報を特定のコードや信号形式に変換すること)を行う。
術野展開:眼窩底の精密解剖
第10手術室。犀条の手には、2051年製のマイクロ・フェムト秒レーザー(微細な組織を熱損傷なく切開できる超短パルスレーザー)が握られた。
これより、人工網膜インプラントおよび視神経バイパス術を執刀する。富美さん、術中ナビゲーションの同期を維持しろ。
了解です、先生。でも、普通の光だけじゃなくて赤外線まで見えるようになっちゃって、彼は眠る時も情報の嵐に襲われないでしょうか?
富美(とみ:富沢)が、いつものように現実的な懸念を漏らしながら、ナビゲーションシステムの感度を調整する。犀条は患者の眼瞼(Eyelid:まぶた)を固定し、焼失した眼球(Eyeball)の残骸を取り除いた。
萌、外眼筋(Extraocular muscles:眼球を動かすための6つの筋肉の総称)を温存しろ。人工眼球のステアリングに流用する。滑車神経(Trochlear nerve:上斜筋を支配する第4脳神経)と外転神経(Abducens nerve:外側直筋を支配する第6脳神経)の信号強度をチェック。
了解。神経信号の電圧を固定。……先生、見えました。視神経の断端(だんたん:切断された端の部分)です。鞘膜(Sheath:神経を包む膜)を剥離して、光ファイバー・インターフェースの接続ポイントを確保します。
モニターには、本来なら脳へと情報を運ぶはずの、純白の神経線維束が映し出された。
符号化の戦場:外側膝状体への介入
野田さん、界面の生体適合性を確認しろ。
細胞病理の専門家、野田 佳代が、電子顕微鏡越しのリアルタイム解析データを提示する。
……界面に微小な炎症反応を検知。グリア瘢痕(Glial scar:神経損傷後にグリア細胞が増殖して形成する硬い組織の壁)が形成され始めています。このままだと、符号化された信号が電気的な抵抗に阻まれ、脳に届きません。
論理的な解決策は一つだ。外側膝状体(Lateral geniculate nucleus:丘脳に位置し、視覚情報の主要な中継所となる神経核)に直接、ナノ電極を刺入し、中継プロセスをバイパスする。萌、信号の変換アルゴリズムを『拡張視覚(Augmented vision)』モードに設定しろ。
犀条は、鵜飼が裏ルートで確保した、神経親和性が極めて高い多点マイクロ電極アレイを取り出した。萌は、自身の脳内計算機を全開にし、視覚野にある数億個の神経細胞のアドレスを特定していく。
先生、符号化プロトコル、準備完了。400ナノメートルから1500ナノメートルまでの波長領域を、視覚野の錐体細胞の発火パターンへマッピングしました。これで彼は、熱(赤外線)を『色』として知覚できるようになります。
犀条の手技が、深部脳組織(Deep brain tissue)へと到達した。視索(Optic tract)を通り、丘脳の裏側に位置する外側膝状体に、極細の電極が1ミクロンの狂いもなく打ち込まれていく。
犀条先生、光学的同期(Optical sync)のリクエストを承認しました。
手術室の全モニターが、四季の意識に上書きされる。
汎用医療OSロゴスのカーネルを、患者の一次視覚野(Primary visual cortex:視覚情報の入り口となる脳の領域)に直結します。……現在、生体の視覚記憶と人工信号の位相同期(信号のタイミングを完璧に合わせること)を開始。カウントダウンを開始します。
危機:視覚的過負荷
その時、閉頭(開けた骨や皮膚を閉じる処置)直前の術野で異変が起きた。人工網膜が、手術室の微弱な赤外線放射を過剰に拾い上げ、患者の脳へ強烈なパルスを送り込んだのだ。
先生! 脳波がガンマ波領域(高度な情報処理や認知活動に関連する脳波の周波数帯)で暴走しています! 患者の脳が、今まで見たこともない波長の情報を『視覚』として認識できず、てんかん性の異常発火を起こしています!
富美の声と共に、警告灯が赤く点滅する。脳が「見えすぎる恐怖」に拒絶反応を示しているのだ。
論理が崩壊しかけている。脳が情報の解像度に追いついていない。萌、信号のサンプリングレートを下げろ!
ダメです、先生! チップのハードウェア・リミッターが外れています! このままでは後頭葉(Occipital lobe:脳の後ろ側にあり、視覚処理を担当する部分)が焼き切れます! 四季さん、介入して!
不可能です。これは患者の意識が、新しい『世界の見え方』を受け入れられるかどうかの適応の問題です。計算だけでは制御できません。
その時、手術室の隅で待機していた千里が、患者の側頭部に手を当てた。
……ねえ、怖くないよ。目を閉じていても見えるその光は、あなたが生きている証拠なんだから。情報の海に溺れないで。私が、あなたの『焦点』になってあげる。
千里の柔らかな神経共鳴(生体磁場を通じて相手の精神状態を安定させる手法)が、暴走する脳波を優しくなだめていく。数秒後、モニターの激しいノイズが収まり、視覚野の活動が一定の律動を取り戻した。
……オーバーフローの解消を確認。視覚情報の統合。赤外線視覚の定着を完了しました。
結末:拡張された闇の果て
3時間後。手術は終了し、患者の瞳(人工眼球)には、深紅のインジケーターがかすかに灯っていた。
オペ終了だ。彼の網膜は、もはや光を捉えるだけの組織ではない。世界を数式と波長で解体する、高精度のセンサーへと進化した。
犀条は血に汚れた手袋を脱ぎ捨て、冷めきったコーヒーを飲み干した。
見学室では、医療倫理監査官の込山が、無機質な報告書をタブレットに打ち込んでいた。
犀条先生。今日あなたが彼に与えたのは、視力ではありません。『過剰な現実』です。彼はこれから一生、壁の向こうの熱源や、空気中のナノマシンの流れさえも見続けることになる。彼が安らかに眠れる夜は、もう二度と来ない。
込山さん。見えすぎる不幸と、見えない絶望。どちらがより非論理的か。私は、彼の脳に選択肢を返しただけだ。
病院を去る医療ジャーナリストの瀬津は、夜明けのメド・シティを眺めながら、ICレコーダーに独白を記録した。
……視覚の拡張。それは、人間が世界の『裏側』を覗き見る代償に、純粋な闇を失うということ。私たちが機械の目を通して見る朝焼けは、果たして、かつて人類が愛したあの美しい景色と同じものなのだろうか。
ドームの向こう側から、人工的な太陽が昇り、街を数千億のデータへと還元し始めていた。




