表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5345/5566

幕間 第10章:視神経の拡張(Enhanced Vision) ―赤外線視覚の付与と視覚野への直接符号化―



2051年、11月。東京都高度生命科学特区メド・シティの夜は、物理的な闇を完全に追放していた。高層ビルの壁面を流れる広告の明滅と、幾千万のドローンが描く光の軌跡。この街で生きるということは、情報の奔流を視覚的に処理し続けるという、網膜への過酷な奉仕を意味していた。


午前1時50分。国立病院の第10手術室(OR-10)へ、リコリコ・メディックの千里ちさと多喜たきが緊急搬送した患者が運び込まれた。


患者、20代男性。特区の深層偵察官ダイバー。任務中に高出力レーザーの直撃を受け、両眼の網膜(Retina:眼球の最内層にあり、光を電気信号に変える神経組織)が完全に焼失しています!


多喜(たき:井ノ上たきな)が、患者の頭部スキャンデータを犀条に転送しながら叫ぶ。彼女の瞳には、冷徹なまでのプロフェッショナリズムが宿っている。


多喜、彼の視覚情報系、完全に『ノイズレス』だよ。光を感知する錐体細胞(Cone cells:明るい場所で色や形を識別する視細胞)も、暗所で働く桿体細胞(Rod cells:わずかな光を感知する視細胞)も、熱で融解して炭化してる。


千里(ちさと:錦木千束)は、患者の眼窩(Orbit:眼球が収まっている頭蓋骨のくぼみ)を覗き込み、自身の特殊な感覚受容体を通じて、消失した情報の欠落を嘆いた。


無残だな。光という名の論理を失った肉体は、もはや暗闇という名の迷宮に閉じ込められたに等しい。萌、この患者の視神経(Optic nerve:網膜からの情報を脳へ伝える第2脳神経)の残存伝導率を算出せよ。


手術室の暗がりに、犀条さいじょう 創平そうへいの乾いた声が響く。彼は手元の保温カップから、カフェイン濃度の極限まで高められたブラックコーヒーを一口啜り、思考を加速させた。


先生、既にトポグラフィー(立体配置図)を構築済みです。眼球側の損傷は致命的ですが、視神経交叉(Optic chiasm:左右の視神経が交差するX字型の部分)以降の中枢側は健全です。視索(Optic tract:視神経交叉から外側膝状体へ至る情報の通り道)への直接介入バイパスが可能です。


西之園にしのぞの もえは、術野の3Dホログラムを指先で展開し、脳の深部にある視覚伝導路を色鮮やかに強調した。彼女の直感演算は、犀条の論理的推論を常に数秒先回る。


よし、オペを開始する。生体の目を再生させるのではない。鵜飼から調達した『マルチスペクトル人工網膜ユニット』を接続し、視覚野(Visual cortex:大脳後頭部に位置し、視覚情報を最終的に処理する領域)へ直接符号化(Encoding:情報を特定のコードや信号形式に変換すること)を行う。


術野展開:眼窩底の精密解剖

第10手術室。犀条の手には、2051年製のマイクロ・フェムト秒レーザー(微細な組織を熱損傷なく切開できる超短パルスレーザー)が握られた。


これより、人工網膜インプラントおよび視神経バイパス術を執刀する。富美とみさん、術中ナビゲーションの同期を維持しろ。


了解です、先生。でも、普通の光だけじゃなくて赤外線まで見えるようになっちゃって、彼は眠る時も情報の嵐に襲われないでしょうか?


富美(とみ:富沢)が、いつものように現実的な懸念を漏らしながら、ナビゲーションシステムの感度を調整する。犀条は患者の眼瞼(Eyelid:まぶた)を固定し、焼失した眼球(Eyeball)の残骸を取り除いた。


萌、外眼筋(Extraocular muscles:眼球を動かすための6つの筋肉の総称)を温存しろ。人工眼球のステアリングに流用する。滑車神経(Trochlear nerve:上斜筋を支配する第4脳神経)と外転神経(Abducens nerve:外側直筋を支配する第6脳神経)の信号強度をチェック。


了解。神経信号の電圧を固定。……先生、見えました。視神経の断端(だんたん:切断された端の部分)です。鞘膜(Sheath:神経を包む膜)を剥離して、光ファイバー・インターフェースの接続ポイントを確保します。


モニターには、本来なら脳へと情報を運ぶはずの、純白の神経線維束が映し出された。


符号化の戦場:外側膝状体への介入

野田さん、界面インターフェースの生体適合性を確認しろ。


細胞病理の専門家、野田のだ 佳代かよが、電子顕微鏡越しのリアルタイム解析データを提示する。


……界面に微小な炎症反応を検知。グリア瘢痕(Glial scar:神経損傷後にグリア細胞が増殖して形成する硬い組織の壁)が形成され始めています。このままだと、符号化された信号が電気的な抵抗インピーダンスに阻まれ、脳に届きません。


論理的な解決策は一つだ。外側膝状体(Lateral geniculate nucleus:丘脳に位置し、視覚情報の主要な中継所となる神経核)に直接、ナノ電極を刺入し、中継プロセスをバイパスする。萌、信号の変換アルゴリズムを『拡張視覚(Augmented vision)』モードに設定しろ。


犀条は、鵜飼うかいが裏ルートで確保した、神経親和性が極めて高い多点マイクロ電極アレイを取り出した。萌は、自身の脳内計算機を全開にし、視覚野にある数億個の神経細胞のアドレスを特定していく。


先生、符号化エンコードプロトコル、準備完了。400ナノメートルから1500ナノメートルまでの波長領域を、視覚野の錐体細胞の発火パターンへマッピングしました。これで彼は、熱(赤外線)を『色』として知覚できるようになります。


犀条の手技が、深部脳組織(Deep brain tissue)へと到達した。視索(Optic tract)を通り、丘脳の裏側に位置する外側膝状体に、極細の電極が1ミクロンの狂いもなく打ち込まれていく。


犀条先生、光学的同期(Optical sync)のリクエストを承認しました。


手術室の全モニターが、四季しきの意識に上書きされる。


汎用医療OSロゴスのカーネルを、患者の一次視覚野(Primary visual cortex:視覚情報の入り口となる脳の領域)に直結します。……現在、生体の視覚記憶と人工信号の位相同期(信号のタイミングを完璧に合わせること)を開始。カウントダウンを開始します。


危機:視覚的過負荷ビジュアル・オーバーロード

その時、閉頭(開けた骨や皮膚を閉じる処置)直前の術野で異変が起きた。人工網膜が、手術室の微弱な赤外線放射を過剰に拾い上げ、患者の脳へ強烈なパルスを送り込んだのだ。


先生! 脳波がガンマ波領域(高度な情報処理や認知活動に関連する脳波の周波数帯)で暴走しています! 患者の脳が、今まで見たこともない波長の情報を『視覚』として認識できず、てんかん性の異常発火を起こしています!


富美の声と共に、警告灯が赤く点滅する。脳が「見えすぎる恐怖」に拒絶反応を示しているのだ。


論理が崩壊しかけている。脳が情報の解像度に追いついていない。萌、信号のサンプリングレートを下げろ!


ダメです、先生! チップのハードウェア・リミッターが外れています! このままでは後頭葉(Occipital lobe:脳の後ろ側にあり、視覚処理を担当する部分)が焼き切れます! 四季さん、介入して!


不可能です。これは患者の意識が、新しい『世界の見え方』を受け入れられるかどうかの適応アダプテーションの問題です。計算だけでは制御できません。


その時、手術室の隅で待機していた千里が、患者の側頭部に手を当てた。


……ねえ、怖くないよ。目を閉じていても見えるその光は、あなたが生きている証拠なんだから。情報の海に溺れないで。私が、あなたの『焦点フォーカス』になってあげる。


千里の柔らかな神経共鳴(生体磁場を通じて相手の精神状態を安定させる手法)が、暴走する脳波を優しくなだめていく。数秒後、モニターの激しいノイズが収まり、視覚野の活動が一定の律動リズムを取り戻した。


……オーバーフローの解消を確認。視覚情報の統合。赤外線視覚の定着を完了しました。


結末:拡張された闇の果て

3時間後。手術は終了し、患者の瞳(人工眼球)には、深紅のインジケーターがかすかに灯っていた。


オペ終了だ。彼の網膜は、もはや光を捉えるだけの組織ではない。世界を数式と波長で解体する、高精度のセンサーへと進化した。


犀条は血に汚れた手袋を脱ぎ捨て、冷めきったコーヒーを飲み干した。


見学室では、医療倫理監査官の込山こみやまが、無機質な報告書をタブレットに打ち込んでいた。


犀条先生。今日あなたが彼に与えたのは、視力ではありません。『過剰な現実』です。彼はこれから一生、壁の向こうの熱源や、空気中のナノマシンの流れさえも見続けることになる。彼が安らかに眠れる夜は、もう二度と来ない。


込山さん。見えすぎる不幸と、見えない絶望。どちらがより非論理的か。私は、彼の脳に選択肢を返しただけだ。


病院を去る医療ジャーナリストの瀬津せつは、夜明けのメド・シティを眺めながら、ICレコーダーに独白を記録した。


……視覚の拡張。それは、人間が世界の『裏側』を覗き見る代償に、純粋な闇を失うということ。私たちが機械の目を通して見る朝焼けは、果たして、かつて人類が愛したあの美しい景色と同じものなのだろうか。


ドームの向こう側から、人工的な太陽が昇り、街を数千億のデータへと還元し始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ