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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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幕間 第4章:肺胞のフィルター(Alveolar Mesh) ―ガス交換の限界点と人工胸膜の再構築―


2051年、6月。東京都高度生命科学特区メド・シティを包む「気象制御ドーム」は、精密な演算に基づき、市民の副交感神経(Parasympathetic nervous system:休息や消化を促す自律神経系)を優位にするための「微細な霧雨」を降らせていた。しかし、その霧の中に混じっていたのは、大気浄化用ナノマシンの「死骸」だった。

午前2時10分。特区国立病院の緊急搬送路に、リコリコ・メディックの最新鋭VTOL(垂直離着陸機)が、激しいダウンウォッシュと共に着陸した。

「患者、30代女性! 重度の呼吸不全(Respiratory failure:肺のガス交換機能が著しく低下し、生体の恒常性が維持できない状態)です!」

多喜(たき:井ノ上たきな)が、酸素飽和度の推移グラフをホログラムで投影しながら叫ぶ。彼女の背後では、千里(ちさと:錦木千束)が患者の胸部にポータブル超音波診断装置(POCUS:ベッドサイドで行う迅速な超音波検査)を当て、肺の状態をリアルタイムでスキャンしていた。

「多喜、肺コンプライアンス(Lung compliance:肺の膨らみやすさを示す指標)がガタ落ち。まるで石を膨らませようとしているみたいだよ。これじゃ、どんなに高濃度の酸素を送っても届かない!」

「……計算が合わないはずだ。彼女が吸い込んだのは、ただの塵ではない。自己増殖を停止し忘れたナノフィルターの残骸だ」

手術室のモニター越しに、犀条さいじょう 創平そうへいがコーヒーを啜りながら断じる。

「萌、この患者の死腔(Dead space:換気は行われるが、ガス交換に寄与しない気道の空間)の増加率を算出しておけ」

「先生、既に終わっています。生理学的死腔(Physiological dead space)は全換気量の65%に達しています。原因は肺胞(Alveolus:肺の末端にある、ガス交換の場となる微小な袋状の組織)表面へのナノマシンの物理的沈着です」

西之園にしのぞの もえは、術野の3Dモデルを指先で展開し、肺の内部構造を層状に分解していく。

「人間一人の肺胞の総表面積は約70~100平方メートル。テニスコート半分ほど。その広大なフロンティアが、今、微細な機械の『ゴミ』で埋め尽くされている。実に非論理的な窒息だ」


術野展開:気管支の迷宮へ

第4手術室。患者は既に全身麻酔(General anesthesia:薬物により意識、痛み、反射を消失させる状態)下にあり、人工呼吸器(Mechanical ventilator)によって辛うじて生命を維持していた。

「これより、ナノマシンの物理的吸引および、損傷した胸膜(Pleura:肺の表面と胸壁の内側を覆う薄い膜)の補強オペを開始する」

犀条が手にするのは、2051年製の「量子気管支鏡」だ。

富美とみさん、界面活性剤(Surfactant:肺胞の表面張力を下げ、虚脱を防ぐ物質)に磁性ナノ粒子を混合した特製洗浄液を。鵜飼うかいが確保した非公式アンオフィシャルな代物だが、これしかない」

「はいはい、了解です。先生、また危ない橋を渡りますね……患者さんの旦那さん、外で震えて待ってるんですよ?」

富美(とみ:富沢)が現実的な忠告を投げかけながら、手際よく洗浄液の準備を整える。

犀条は気管支鏡を気管(Trachea)から挿入した。モニターには、気管分岐部(Carina of trachea:気管が左右の主気管支に分かれる場所)を経て、さらに細分化される細気管支(Bronchiole:末梢に向かって枝分かれする細い気道)の迷宮が映し出される。

「見てください、先生。呼吸細気管支(Respiratory bronchiole:ガス交換機能を持つ、最も末端に近い気管支)の壁面に、銀色のナノ粒子がびっしりとこびりついています」

萌が指摘する。その光景は、生物の組織が機械に侵食される、不気味な美しさを持っていた。

微小世界の戦闘:血液空気関門の防衛

「野田さん、細胞レベルのダメージを報告しろ」

病理担当の野田のだ 佳代かよが、遠隔操作のマイクロカメラを肺胞内に送り込む。

「……ひどいものです。血液空気関門(Blood-gas barrier:肺胞内の空気と毛細血管内の血液の間にある、酸素や二酸化炭素が透過する極めて薄い壁)が、ナノマシンの熱反応で微小炎症(Micro-inflammation)を起こしています。Ⅰ型肺胞上皮細胞(Type I alveolar cell:ガス交換を担う非常に薄い細胞)が剥離し、そこにフィブリン(Fibrin:血液凝固に関わるタンパク質。過剰になると組織の線維化を招く)が沈着し始めています」

「論理的な解毒が必要だ。磁性洗浄液、注入」

犀条がペダルを踏むと、特殊な液剤が末梢の肺胞まで満たしていく。

「萌、外部磁場の誘導ステアリングを開始しろ。ナノマシンの死骸を、液剤ごと剥ぎ取れ」

「了解。マクスウェル方程式(Maxwell's equations:電磁場の性質を記述する基礎方程式)に基づき、肺胞壁への剪断応力(Shear stress:組織の接線方向に働く力)を最小限に抑えつつ、粒子を中央に集積させます……。はい、今です!」

萌の精密な磁場操作により、肺胞の壁にこびりついていた「機械のゴミ」が、黒い塊となって洗浄液の中に浮き上がった。犀条が素早く吸引を開始する。

「よし、分圧(Partial pressure:混合気体の中で、各成分ガスが単独で示す圧力)が改善してきた。動脈血酸素分圧(PaO2)、上昇開始」

最終工程:人工胸膜アーティフィシャル・プレウラの展張

しかし、問題はまだ残っていた。ナノマシンの侵食により、肺の表面を覆う臓側胸膜(Visceral pleura:肺そのものを包む内側の膜)に、目に見えないほどの微細なピンホールが多数空いていたのだ。

「先生、このままでは閉胸後に気胸(Pneumothorax:肺に穴が空き、胸膜腔に空気が漏れ出て肺が潰れる状態)を起こします。胸膜腔(Pleural cavity:臓側胸膜と壁側胸膜の間の狭い空間。通常は陰圧に保たれている)の陰圧(Negative pressure:大気圧よりも低い圧力。これにより肺は膨らんだ状態を維持できる)が維持できません」

「ああ、承知している。鵜飼から届けられた『形状記憶ナノメッシュ』を展開する。これが第4章の核心だ」

犀条は、胸腔鏡を用いて、肺の表面全体を覆うように、極薄の人工膜を展張し始めた。

「これは単なる膜じゃない。萌、このメッシュの『呼吸』をOSに同期させろ」

「はい。汎用医療OS『ロゴス』、四季しきさんのカーネルにアクセスします……」

手術室に、四季の静かな声が響く。

『犀条先生。人工胸膜のナノ・アクチュエーター、同期完了しました。患者の呼吸リズムに合わせ、膜の弾性係数をリアルタイムで調整します。これにより、肺の収縮を機械的に補助し、機能的残気量(FRC:吐ききった後に肺に残っている空気の量)を最適化します』

「完璧だ。これで彼女の肺は、肉体と機械の『共生体シンビオート』として再定義される」


結末:呼吸という名の演算

手術終了から1時間後。リカバリールームで、患者の胸は静かに、そして規則正しく上下していた。

「千里、彼女、もう大丈夫そうだね」

多喜がモニターの数値を記録しながら、千里に声をかける。

「うん。でも、自分の肺が機械で補強されてるって知ったら、彼女どう思うかな? 少しだけ重くなっちゃったかもね」

千里は、窓の外の霧雨を見上げた。

一方、見学室の影。

込山こみやまさん。今日のオペ、どう記録します? 『人命救助』ですか、それとも『環境汚染の証拠隠滅』ですか?」

ジャーナリストの瀬津せつが、監査官の込山に問いかける。

「……私はただの刑事上がりだ。だが、一つだけ確かなことがある。犀条のような男たちが、こうして『肉体の綻び』を機械で縫い合わせ続ける限り、この街の呼吸は止まらないということだ。それが、たとえ人工的な呼吸であってもな」

込山は、20年前から変わらない古い革の手帳に、一言だけ「換気良好」と書き記した。

2051年の東京。ドームの下で、数千万の人々が、生体と機械の境界線上で、今日も同じ空気を吸い、吐き出している。



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