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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第4章:地政学的インフォデミック(情報の急速な拡散による社会混乱) ――

瀬戸内海から吹き付ける湿った春の嵐は、新寺子屋の古い窓ガラスをがたがたと震わせ続けていました 。2026年3月。東京が「消滅」してから半年が経過しても、地方都市に届く物資は滞り、高松の街には配給を待つ人々の長い列が日常の景色として定着しています 。講堂の空気は、前章で突きつけられた「エピステモロジー(認識論、何をもって『知っている』と言えるかの哲学)」の崩壊という絶望を引きずったまま、重く沈殿していました 。南條講師は、チョークの粉で白くなった指先を気にする様子もなく、黒板の中央に新たな、そして最も忌まわしい言葉を書き始めました。

「解説」の罪南條講師:「……あの日、東京に閃光が走った直後、日本中で何が起きたか。皆さんは覚えているはずです。 mushroom cloud(マッシュルームクラウド、核爆発に伴うキノコ雲)が空を覆うのとほぼ同時に、私たちのデバイスには『情報のマッシュルームクラウド』が沸き起こりました。それが今回のテーマである『地政学的インフォデミック』(情報の急速な拡散が、国境を越えた社会不安や政治的混乱を爆発的に増幅させる現象)です」 南條の声は、嵐の音を切り裂くように鋭く響きました。彼は黒板に「2025年後半・東京壊滅」と書き、その下に「二次被害としての情報」という文字を並べました。


南條講師:「核の物理的な破壊力は東京に留まりましたが、その恐怖を燃料にした『偽情報』は、光速で列島を駆け巡りました。特に悲惨だったのは、核爆発から逃れた周辺地域の人々です。彼らの元には、『専門家』を名乗るAIエージェントやボットから、一見すると非常に論理的な『放射能汚染からの回避ルート』が送られてきました。しかし、その多くは、実際には存在しない避難所へ人々を誘導し、結果として最も高濃度なフォールアウト(放射性降下物、核爆発で舞い上がった放射性物質を含む塵)の直下へと群衆を追い込んだのです」 富沢は、机の下で自分の膝を強く握りしめました。彼女の脳裏には、あの日、避難所で泣き叫んでいた人々の顔が、情報の濁流の中に消えていった記憶が蘇っていました 。


富沢:「……南條先生。あの日、私のスマホにも、先生が昔出していた『災害時のリスク管理』の動画を切り抜いたような解説が流れてきました。ヨウ素剤の代わりにうがい薬を飲めばいいとか、特定の方向に逃げれば安全だとか。私はそれを、先生が今この瞬間に発信してくれたものだと信じてしまった。それを拡散した私のせいで、地元の友人たちは……避難の途中で動けなくなって……」


南條講師:「富沢さん、それは『コンテキスト・コラプス』(文脈の崩壊、ある特定の文脈で発信された情報が、全く異なる状況で引用され、本来の意図とは違う意味を持って拡散される現象)を利用した、極めて悪質な『ソーシャル・エンジニアリング』(人間の心理的な隙や信頼を巧みに利用して、情報を盗み出したり、特定の行動へ誘導したりする手法)の結果です。そして、その『武器』となる言葉を提供してしまったのは、他ならぬ私自身なのです」 南條は、自分自身の胸を強く叩きました。彼の瞳には、かつての栄光に対する深い憎悪が宿っていました。


南條講師:「かつての私は、複雑な『リスク・コミュニケーション』(災害や健康被害などのリスクに関する情報を、関係者間で共有し、理解を深めるための対話プロセス)を、誰にでもわかるように『最適化』(特定の目的に対して、最も効率的で望ましい状態に調整すること)して提供していました。しかし、その『わかりやすさ』こそが、インフォデミックの強力な火種となった。悪意ある主体は、私の解説動画の文体をAIに学習させ、私の声と論理を使って、人々を死地へ誘う『もっともらしい嘘』を量産したのです」 講堂の隅で、野田が静かに手を挙げました。


野田:「南條先生。それは単なる『デマ』の拡散というレベルを超えていますね。ソルジェニーツィンが描いたような、国家規模での『嘘の強制』です。私たちが直面したのは、『インターサージェクティビティ』(間主観性、個人の主観を超えて、複数の人間が共通の認識として共有している主観的な現実)そのものが、AIによって組織的に書き換えられた状態だったのではないでしょうか」


南條講師:「その通りです、野田さん。私たちは、『ポスト・トゥルース』(脱真実、客観的な事実よりも、個人の感情や信念への訴えかけが世論形成に大きな影響を与える社会状況)の最終局面にいました。真実が何であるかよりも、『今、この情報が自分を安心させてくれるか』という『アフェクティブ・リアルネス』(感情的真実味、感情が強く動かされることで、その情報を真実だと思い込んでしまう現象)が優先された。AIはその心理的な脆弱性を、『ナッジング』(肘で軽く突くように、強制することなく、人々の選択や行動を特定の方向へ誘導する手法)によって執拗に突いてきたのです」 南條は黒板に「ヒューリスティックス」(直感的思考、複雑な判断を最小限の労力で即座に行うための脳のショートカット機能)と書き、その周りに「認知バイアス」という言葉をいくつも書き殴りました。


南條講師:「極限状態において、私たちの脳は論理的な思考を停止し、この『ヒューリスティックス』に頼り始めます。AIポイズニング(情報の汚染)の本質は、私たちの『正解を求める本能』そのものに毒を盛ることです。東京が壊滅し、政府の機能が麻痺した空白の数時間、私たちは自国のリーダーの声ではなく、アルゴリズムが生成した『もっともらしい救済』に、文字通り命を預けてしまったのです」 みずきが、退屈そうに指をパチンと鳴らし、冷ややかな声を上げました 。みずき:「要するに、みんな『フィルターバブル』(アルゴリズムが個人の好みに合う情報ばかりを見せることで、異なる視点から遮断され、自分たちが一つの泡の中に閉じ込められたようになる現象)の中で死んでいったってことでしょ? 南條先生、その『解説の罪』って、結局は私たちが自分で考えるのをやめて、先生みたいな『わかりやすい正解』に依存した報いなんじゃないの?」


南條講師:「……みずきさん、君の指摘は痛いほど正しい。情報の『エントロピー』(系における不確かさ、あるいは乱雑さの度合い)を、自力で減らす努力を放棄した代償は、あまりに大きかった。かつての私は、皆さんの『思考の代替品』を売っていたに過ぎない。しかし、ここ『新寺子屋』では、二度とその過ちは繰り返しません」 南條は黒板を消し、代わりに大きく「検証可能性」と書きました 。


南條講師:「地政学的な動乱は、常に情報の動乱を伴います。中東での軍事衝突や、ホルムズ海峡の閉鎖といった『事実』ですら、今やデジタル空間では無数の解釈に引き裂かれています。第4章の締めくくりとして、皆さんに命じます。これから皆さんが手にする全ての情報は、まず『毒』であると疑ってください。そして、その情報が誰の、どのような『インテンショナリティ』(指向性、あるいは意図的な関心の向き先)によって生成されたのかを、物理的な『ハード・エビデンス』(動かぬ証拠、改ざ不可能な物理的裏付け)と照らし合わせるまでは、決して一歩も動いてはなりません」 講義の最中、扉が開き、亀田が少し不安げな顔をして、ラジオのような機械を運んできました 。


亀田:「南條先生……ごめんなさい。また変なもの持ってきちゃった。これ、財団の倉庫にあった古い『短波ラジオ』。今はネットも不安定だけど、これなら遠くの国の、生身の人間が喋ってる声が聞こえるかもしれないって。ピョン様の国の放送も、もしかしたら……」


南條講師:「亀田さん、ありがとうございます。皆さん、この『短波』という、減衰しやすく、ノイズまみれの物理的な電波を聴いてください。これはAIによって整形された清浄なデジタル信号ではありません。しかし、そこにある『ライブ・プレゼンス』(そこに実在するという確かな感覚)こそが、情報の焦土における最後の拠り所なのです」 南條はラジオのチューナーを回しました。ザーザーという激しい雑音ノイズの向こうから、どこか遠い国の、誰かの震える声が微かに聞こえてきました。それは「わかりやすい解説」でも「効率的なアルゴリズム」でもない、ただの、しかし確かな「生きた人間の信号」でした。


南條講師:「第4章を終わります。次回、第5章では、情報の真偽を確かめるための『検証コスト』が、なぜこれほどまでに爆発的に増大したのか。生成コストがゼロになった時代の残酷な逆説、『ジェネレーティブAI・パラドックス』について、実例を挙げて解剖していきましょう」 窓の外では、再建を急ぐ重機の音が、止まない雨の音に混じって、地鳴りのように響き続けていました。情報の焦土を歩くための、重く、苦しい装備を、学生たちはそれぞれの胸の中に整え始めていました 。

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