第136章 羽田空港:静かなるざわめき
朝の光がガラス張りの天井から差し込み、床の石材に鈍く反射している。羽田空港国際線ターミナルはまだ静かで、夏休みの観光客の声が遠くでこだまする程度だ。だが、チェックインカウンターの一角だけは、異質な緊張感を帯びていた。
スーツケースを三つ連ねたアメリカ人の母親が、幼い娘の手を強く握っている。カウンターでは航空会社のスタッフが、「ワシントンD.C.行き、経由便の座席を前方に変更しますか?」と小声で確認した。母親はうなずき、後ろを振り返らずに手荷物を預ける。夫の姿はない。彼は東京のオフィスに残るのだろう。
隣では、韓国人駐在員とみられる中年男性が、スマホに韓国語で早口の指示を飛ばしている。
「今夜の便で来い。いや、理由は後で話す。いいからパスポートだけ持って空港に来い」
足元には、大きな段ボール箱がガムテープで厳重に封じられ、"Personal Effects"とだけ手書きされていた。
さらに奥のビジネスクラス専用レーンでは、スーツ姿の日本人男性がチェックインを済ませ、ラウンジへ向かう。手にはパスポートと、シンガポールの永住権証明カード。無表情だが、歩くテンポはわずかに速い。
到着ロビーとの境界に近い場所では、NHKのカメラクルーが観光客のインタビューを撮っていた。しかし、出国する駐在員や外交官の家族は、そのカメラを避けるように足早に通り過ぎていく。
全体の雰囲気はまだ"平常"を装っている。しかし、空港の空気は確かにわずかに濁っていた。案内板の裏で、ANAとデルタ航空の職員が密かにタブレットを見せ合い、「米国発の臨時便計画が上層から通達された」という短い会話が交わされていた。
それは、嵐の前の静けさを感じさせる光景だった。