第129章 DAY-15 韓国 仁川からの脱出
仁川の海霧は薄く、滑走路の照明がまだ点灯している。
出発ロビーの一角に設けられた「US Citizens – Departure Assistance」の仮設カウンター。オレンジ色のベストを着た米国大使館領事部のスタッフが立ち、その横には米陸軍第8軍の兵士が2名、チェックリストを手に一人ひとりのパスポートと名前を照合していく。
「マダム・コリンズ、娘さんは?」
「ええ、あちらに。まだ朝食を…」
「はい、こちらへ。手荷物はこれで全てですか?」
カウンターの裏では、別の職員がスマートフォンで航空会社のゲート担当者と直接やり取りしている。チャット画面には「DL196・シート確保・未発券分3」と短く打たれていた。
ソウル・鍾路区にある大使館退避調整室。壁一面のモニターに、米国防総省と国務省の回線映像が映し出されている。地図には38度線付近の「異常な燃料補給パターン」がマーカーで表示されていた。
領事部の責任者が、仁川の現場担当に衛星電話で確認する。
「第2便の搭乗者、今何人だ?」
『72名、うち35名が軍属家族、残りは民間契約者です』
「分かった。次の便の準備を始めろ。Voluntary Departureはあくまで希望者だ。だが、この燃料補給は…」
彼の背後のホワイトボードには太字で「VOLUNTARY DEPARTURE – PHASE 1」と書かれていた。つまり、まだ義務ではない。しかし“今のうちに出た方がいい”という暗黙のシグナルは、在韓米人コミュニティに広く伝わっていた。
DL196便(仁川発デトロイト行き)の搭乗ゲート248番は、通常よりも警備が厳重だった。韓国空港公社の保安職員に加え、米大使館警備チームが2名、顔認証ゲートの横に立っている。
ゲート前の行列には、スーツケース2個だけの家族、ラップトップバッグだけのビジネスマン、ケージに入れられた小型犬を抱く女性…。表情は、焦燥よりも“まだ信じられない”という半信半疑の色が濃い。
「これで本当に良かったのかな…」
夫が妻に尋ねる。妻は不安げに首を横に振った。
「分からないわ。でも、大使館からああいう連絡があったんだから…」
一人の男性が、出国スタンプの押されたパスポートを見つめてつぶやく。
「二週間後には戻れるさ。たぶん…」
その声は、空調の低い唸りにすぐかき消された。
タキシング中の機内。機内アナウンスが流れる。
「Ladies and gentlemen, as we taxi out, please ensure your seat belts are fastened…」
窓際に座る米軍属の妻が、シートポケットから韓国語の新聞を取り出す。そこには「北、来週にも長距離砲演習か」の見出し。記事中の“訓練”という単語が、今は別の意味を持って見えた。
彼女は夫に新聞を見せる。
「ねえ、これ…」
「心配するな。ただの訓練だ。…きっと」
夫の言葉は力強かったが、その視線は窓の外、遠ざかる滑走路の景色から離れなかった。